バランス

「心身」と云う括りがあるが、一般的には「バランス」と云う言葉で補われたりする。

この言葉は殊更に心身だけに留まらず、あらゆることに用いられたりする汎用的な「逃げ口上」だと感じる。

僕は「傾ぐシーソーで楽しむ」と云う苦し紛れな気休めで、都度、降り掛かる不都合の類いを楽しもうとする。

シーソーと云うのはバランスが良いと都合が悪い。云わずもがな、シーソー遊戯としての機能を果たせないからだ。

アップダウンの激しいシーソーに振り落とされる可能性があるのは否めない。

ただ、シーソーですら楽しめないのならば、他の遊戯で楽しむことは難しいだろう。

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美辞麗句

支えを失った者は支えのない者より自由だ。
自由だが、開放感はそこにはない。

せめて、美しい言霊で彩りを──。

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断念。。

や、MTをね。3.35から4.1にバージョンアップしようと。
ま。割と時間掛けて手間ひま掛けてたんですが、、

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哲学

哲学とは、
一事を掘り下げ、万事を模索する、
横着者の詭弁と自戒の邁進である。

___ spelt by vincent.

刺激と耐性考

「生きることに飽いている」

以前にも、こんなフレーズを綴ったな、と。
何となく、ぐぐってみた。

[ポエトリリック]透明な闇

反芻して、我ながら唸る。

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一元物の輪郭 - あとがき

人は自己判断のみで生を垂れ流す。

自己判断とは、自分にとって好都合なことだけを抽出し、好都合に解釈し、受け入れ、それを「自己のものである」と云う確信に押し上げることだ。

逆に、不都合なことは例え正論と云えども浸透せず、受け入れない。

好都合・不都合の篩に掛け、取捨選択を行う。それは要・不要でも同じこと。

いずれにおいても自分中心軸はブレない。しかも、それを我が物顔で振る舞う。

何とも身勝手な生き物だ。

「客観的な自己判断」と云うものもあるが、それも飽くまで、自身の判断による「客観視」だ。どうしても「主観寄り」になることは否めない。

自分は常に自分の味方をする。

「自己中心的でない人間などこの世に居ない」──こう云わしめた所以だ。

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