2018年11月 アーカイブ[2]

能動的に愛するという奇跡

他人というのは驚くほど自分のことを考えてくれない生き物だ。
踏まえて、他人に愛されるということが、どれほど奇跡であるのか、ということを思い知らされる。

これは被害妄想的な意味合いではなく、お互いにそうなのだから致し方ない。斟酌や忖度が空想上の幻獣らと何ら変わらないことを知り至る。

同時に、独善的に他人を思い遣るということが、どれほど恣意に基づいているのか、ということも知り得る。以前、差別の元凶として説いたが、恐らく大外しはしていない。

差別、特別、区別、分別、等々。
幾らボキャブラリーを変えたところで「別」という言葉が入る以上、同じではないということを事更に主張しているだけだ。

差別扱いは良くないが特別扱いは良い。

この思想そのものが差別がなくならないことを示唆している。

或いは、特別扱いという差別扱いに気付かない、気付いていない、という自分本位を如実にしているだけかも知れない。

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余命宣告なしの計画

何故、明日も生きているという前提で計画を立てられるのか。

何が起こるか分からない、といった理もあるが、まるっきり盲目的な訳ではない。ある程度、年嵩も増せば、経験則上の予測なりが立ち、近い将来のことも見通せるようになる。

ただし、冒頭の前提においては、何処にその根拠を置いているのだろうか。穿って考えれば、自分本位で好都合な前提だ。

健康に自信がない者や、その他の思い当たる節がある者を除き、殆どが自身の死を前提にした悲観的な予測なりを立てないのでは、と感じている。

確約や保証が欲しい訳ではない。生とは自身の権利であり、尽きるまで全うすべし、ということを潜在的に刷り込まれているだけなのだから。

そもそもが自分本位な前提で成り立っている。

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