自分の胸に手ぇ当てて訊く必要はねえんだが、そうするとナンボか落ち着くぜ。
手間ぁ端折らず手続き踏むと、案外、実感沸いたりするもんさ。
誰かに責められてる訳でも咎められてる訳でもねえんだが、自分だけが知ってる“やましさ”とやらが、ちらほらと浮かんでくるのさ。
それらを一枚一枚拾っては並べてみるんだ。そして、しばらく眺めてから、また一枚一枚裏っ返してゆく。すると、思いの他、安心するのさ。不思議だろ?
自問てな、そうゆうこと。
でな。自答する必要もねえんだ。自分で裏っ返したんだ。表が何だったかは覚えてるだろ? 忘れちまってたら、また裏っ返せばいい。答えはそこにある。
2014年1月 アーカイブ[2]
実際、厄介だぜ。
言い方なんてのは特にないが、語り方ってのは幾通りもある。
おざなりだろうが、ぞんざいだろうが、聞き遂げた者に響かなければ、何も言ってないのと同じこと。
刺さるフレーズてな音楽とよく似てる。
ロックが聴きたいときと、バラードが聴きたいときじゃあ気分が違うだろ?
奏でるように語り掛けるのさ、そいつのご機嫌伺いながら。
媚びてる訳じゃないんだぜ?
優しさってのはこちらの優位性の押し売りなのさ。
響かなければ煙たがれるだけ。
まぁ、何でも工夫が必要ってこった。
実際、厄介だぜ。