あからさまな肯定では何も生まれない。
否定があってこそ変化が生まれる。
否定から入るのは耳を傾けさせる方策のひとつ。
他人の話は最後まで聞かないと真意を知れない。
特に日本語は語尾で意味が変わることが少なくない。
否定的な一部分だけを切り取れば、なるほど、感じ悪いだけだ。
「うん、それいいね!」
「それ、とは?」
「やぁ、それはそれだよ」
「何を指しているそれなのか分からないな。お前、俺の話聞いているのか?」
「や、正直余り聞いてなかったかも…」
「聞いてなくても別に構わないぜ?」
「──」
「聞くつもりがなかったら徹頭徹尾聞くな。それが俺にとっては優しい」
「──」
「聞かない=全否定」
「──」
「全否定は全肯定の裏返し。俺にとっては非常に好都合なんだよ」
「そんなこと言うなよ…」
「な? こんな返しでお前なんかすぐに悪者にできるのさ」
「お前、意地悪だなぁ…」
「意地悪な奴のほうが指摘が鋭角で自身の反省のいくらか足しになるだろ?」
「まぁ、くすぐったいくらいの全肯定は何も刺さらねえしな」
「そういうこと」
良い部分は治す必要ねえんだから悪い部分だけ気にすりゃいいのさ──
全否定は全肯定の裏返し。
部分的否定に惑わされるな。
真意・本意・主旨とは最後の最後まで聞いてみないと分からないもの。
敢えて否定的な表現から入るということは、より鮮明に肯定を促すための方策のひとつ。
肯定を盛り上げるための演出に過ぎない。
耳障りこそばい肯定的な表現ばかりに包まれていると負の耐性が損なわれる。
正負・陰陽の対比。
どちらかといえば負の要素・陰の要素で多くが包まれていると考えている。
だからこそ正・陽が光り輝いているのではないだろうか?
目指すべく頂きとして掲げられるのではないだろうか?
このスペルの読後、このスペルを全否定すればいい。
それは全肯定の裏返しということを知っているから、僕は痛くも痒くもない。
そんな感じで♪