「余は偉大なる皇帝である。この世に存在するもの、塵ひとつに至るまで余が統治している。平民らに『偉大なる皇帝』と呼ぶことを許可する」
偉大なる皇帝の恒例儀式「独演会」の開幕である。
平民らは、偉大なる皇帝の独演に対して立ち止まって熱心に耳を傾けるなどと云う行為を避け、偉大なる皇帝の前を足早に過ぎ去ってゆく。それは「恐れ多くも…」と云う畏怖の顕れでもあり、同時に、偉大なる皇帝への絶対的な忠誠心の顕れでもあった。
偉大なる皇帝は、口許に誇らしげな笑みを湛え、慈愛に満ちた眼差しで平民らの行き交う様を眺めている。
平民のひとりを見やりながら手を挙げた。
「これ、そこをゆく平民よ。余を『偉大なる皇帝』と呼ぶことを許可する」
偉大なる皇帝に呼び止められた素行の悪そうな平民は眉間に皺を寄せながら、
「いきなり何ぬかしてけつかんねん!? 頭湧いとんちゃうか!?」
と、平民ら間で取り交わされる俗語を以って偉大なる皇帝にお伺いを立てた。
「ほう。余が何を云っているのか解らぬと見える… はてさて… しかし、一介の平民であるが故、それも無理からぬこと… 余が腹を立てても不毛である。大儀であった。下がって宜しい」
「何ゆーてんねん!? 訳分からんわっっ!!」
平民は路上に唾液を吐き捨て、偉大なる皇帝の前から下がった。
「余の言葉は、平民らにはどうも難解であるようだ… 然るに、余の命令に平民らが背いたとしても、それは平民らの解らぬ言葉で話し掛けた余のほうに非がある。それは幾ら余が偉大なる皇帝であろうが許されざる横暴である。余は『暴君』ではない。余は『偉大なる皇帝』である」
偉大なる皇帝は、肩を怒らせて去ってゆく平民の背中を見送った。
「しかしながら、余に『気付き』を与えるとは… 余は危うく慢心に怠惰するところであった。ギリギリの窮地から辛くも脱することが出来た。ウム。流石は余が統治しているだけのことはある。平民らにも優れた者があるのだな」
偉大なる皇帝は、とても満足そうであった。
「かの平民に褒美を取らさねばなるまい。しかしながら、かの平民は彼方まで下がってしまった。何と云う奥ゆかしさであろうか。感涙を禁じ得ない…」
涙腺を刺激された偉大なる皇帝の瞳には、うっすらと液体が盛り上がった。それを振り払うかのように胸を張り、天を仰いだ。
「不覚。このようなことで涙を見せては… 平民らの動揺を煽るだけである。余が毅然としておればこその安寧秩序である。余自身が余の気の緩みを戒めると共に、かの平民が余に感動を与えたことを承認する」
統治者にしか到達し得ない王者の風格と不動の貫禄である。威風堂々の中に悲壮感を帯びた眼差しを彼方の平民に向けた。それは、統治すると云うことの重責を今一度噛み締めているようでもあった。
「余は、余の統治している大気に触れることによって、こうして『新たな喜び』を噛み締めることができるのだ。あらゆる一切のすべてが余の所有物であったとしても、それに驕り昂ぶることは余自身の統治能力を問われるのだ」
行き交う平民らは、偉大なる皇帝の苦悩を知らない。
或いは、立ち止まって耳を傾けることによって、その片鱗を垣間見ることが叶うかも知れないが、やはり、それは平民であるが故の安易で稚拙な憶測に過ぎず、一切の希望・願望の類いを寄せつけぬ、近寄り難いほどの圧倒的な気高さの前にただただ気圧され、尻込みしてしまうのが関の山であろう。
偉大なる皇帝は、平民の与り知らぬ遥か上空の高次元で君臨し、そして、あらゆる一切のすべてを統治しているのだ。
「孤高であるが故に、常に自問自答を強いられる日常であるが、それは致し方あるまい。自明の必然。余は生まれながらにして『偉大なる皇帝』である。何者にも依ることなく須らく統治すべきである」
偉大なる皇帝は、自身の所有物の行き交う様を真剣な眼差しで見つめながら、彼らの欲するものを解り易く説き伏せるための方法論について熟考していた。
「例えば、どうであろうか? 余が知っている事柄は、平民らにとって如何に難解な事柄であっても、余にとっては拍子抜けするほど簡単な事柄である。平民らが『難解』としている事柄自体を余が知らねば、余が説き伏せねばならぬ事柄…ひいては方法論すら見出せぬ… ムゥ… 先程のように余の言葉自体理解せぬ者が難解とする事柄など余はどのようにして知ることができるのだ? 『共通項』或いは『接点』が見出せぬではないか…」
偉大なる皇帝は、苦悶の表情を浮かべながら唸った。
「しかしながら統治者である余のために我が身を挺する、と云う『挺身・献身』については、何の躊躇もなく、具現化した先程のような優れた者もあるのだ。一部であれ、そう云った優れた者があると云うことは、かの者以外にも同等…或いは、それに肉迫するほどの優れた者があったとしても何ら不思議ではない…」
偉大なる皇帝は、いよいよ煮詰まった感を否めない。
「ムゥ… 平民らの難解が非常に難解である──」
洩れ出す嗚咽のように低く呻くと、偉大なる皇帝は、膝を折って大地に両手を着いた。
平民らの間では、このような状態を「orz」と呼ぶそうなので読解の助力として付記しておく。
「おじさん。何してるのぉ?」
「orz」状態である偉大なる皇帝を見下ろすように、平民らの男女のつがいによる営みによって産出された幼い臣下がお伺いを立てた。
偉大なる皇帝の臣下となって、おおよそ5年ないし6年と云ったところだろうか。
円らな瞳は一点の曇りもなく澄み切っていた。
「幼き臣下よ。余は『おじさん』ではない。余は『偉大なる皇帝』である。余の臣下となって日も浅い故、余をそのように呼ぶことを咎めぬものであるが、余の臣下であるが故、余を『偉大なる皇帝』と呼ぶことを許可する」
自身の肉体的・精神的なコンディションなどには毛頭心を配らず、やはり心を砕く矛先は、常に自身の所有物に対してである。偉大なる皇帝の優先順位の潔癖さ。正しく『威風堂々』の極致である。
「済みません。この子ったら余計なことを… ダメよ、まーくん。知らない人に声掛けちゃ」
幼い臣下の製造元の片割れであろうか。偉大なる皇帝に対しては平民の持てる精一杯の陳謝を伝え、同時に、幼い臣下に対しては誤りを諭すと云う教育を偉大なる皇帝の手を煩わせることなく偉大なる皇帝のお手前で披露した。
しかしながら、万物の所有者である偉大なる皇帝の前では、かの者もまたやはり、偉大なる皇帝の所有物であることには相違ない。
偉大なる皇帝は、すくっと立ち上がると、幼い臣下の製造元の片割れとおぼしき者に声を掛けた。
「ウム、かの製造元の片割れよ。余は『偉大なる皇帝』である。そなたの小さな枠組みの中での規則について云々する算段ではないが、余は『偉大なる皇帝』である。然るに、余の言葉なりが難解であるならば、何なりと尋ねることを許可する。或いは、余の許可すること自体が難解ならば、その旨を余に伝えることを許可する」
偉大なる皇帝は満面の笑みを浮かべ、製造元の片割れに度量の裾野を覗かせたが、やはり、偉大なる皇帝の言葉が難解であるのか、製造元の片割れは穴の開いたような表情で偉大なる皇帝を見つめるばかりで呆然と立ち尽くしていた。
「はて… やはり、難解であるか。ムゥ… 再び、同等の苦悩を抱かねばならぬのか…」
幼い臣下は、偉大なる皇帝と製造元の片割れをきょろきょろと下から仰いで見比べていた。
その視線に気付いた偉大なる皇帝は満面の笑みを湛えた。
「幼き臣下よ。余は『偉大なる皇帝』である。そのような視線のレーザービームは統治進行の妨げである。時節を弁えよ。今は下がっていて宜しい」
「おじさんは何をしているのぉ? まーくんは邪魔しているのぉ?」
偉大なる皇帝は片眉を上げながら慈愛に満ちた眼差しで幼い臣下に視線を投げ掛けた。
「幼き臣下よ。余は『おじさん』ではない。余は『偉大なる皇帝』である」
「イダイナルコーテー?」
「ウム。そうである」
「エライ人なのぉ?」
「ウム。そうである。この世に生を授かった瞬間刹那から統治者である」
「トーチシャ? ってなぁに?」
偉大なる皇帝は、言葉を選ぶようにしばし黙考した。
「…ウム。『王様』と云うほうが解り易いかも知れぬな… ──幼き臣下よ。『王様』は解るかね?」
「うん。知ってるよー。絵本とかで見たぁー」
「ウム。そうであるか。絵本…? まぁ、見当も付かぬ代物であるが… 幼き臣下の所有物であるならば、余の所有物であるな… 後ほど究明させよう。──幼き臣下よ。その絵本とやらには何とあったのだね?」
「なにがぁ? 王様のことぉ? んーっとね…」
「ウム。すこぶる利発な臣下である。余にとって快進撃の意思疎通である」
偉大なる皇帝は、再び新たな喜びを噛み締めた。
「本日は非常に良い日である。吉事が重なるときには重なるものであるな。幼き臣下よ。褒美を取らせる。何なりと申すことを許可する」
「え? ご褒美? おじさん。ご褒美くれるのぉ?」
幼い臣下の目がぱーっと見開かれた。
「コラ。まーくん! ダメよ、そんなこと云っちゃ!」
慌てたように製造元の片割れが愉悦の語らいを遮断してきた。
最早「おじさん」などと呼ばれる目先の小事については言及せず、鋭敏で利発な臣下に対して褒美を取らせようとする偉大なる皇帝の大海原のようなキャパシティと鋼のように強靭な意志の前には、何人たりとも足元にも及ばず屈服するだけであろう。
偉大なる皇帝は、幼い臣下を擁護するかのように製造元の片割れの呪文のような発声を片手で封殺した。
「これ、製造元の片割れよ。下がっておれ。余は『偉大なる皇帝』である。余が褒美を取らせると云ったら、何人たりともそれを阻害すること叶わぬ。無礼であるぞ。恥を知れ」
厳格さの中にも慈悲深さを内包した偉大なる皇帝の一喝により、製造元の片割れは蛇に睨まれた蛙のように呪縛された。
偉大なる皇帝は幼い臣下に向き直り尋ねた。
「幼き臣下よ。何を所望するか? 何なりと申すことを許可する」
幼い臣下は偉大なる皇帝の期待に応えるべく、知能の限りを尽くして熟考した。
「んーっとね… うん。分かっちったぁ──!」
「ウム。それは何かね?」
「まーくん。『冠』が欲しいー」
「『冠』?」
「うん。王様の冠──!」
「ムゥ…」
偉大なる皇帝は、自身の頭上をまさぐった。
冠らしきものは認められない。偉大なる皇帝の手は虚空を彷徨う。
幼い臣下は偉大なる皇帝を覗き込んだ。
「おじさん。王様なのに冠ないのぉ?」
「ウム… 余はそのような陳腐な価値観に迎合しておらぬ… どうしたものか… はてさて…」
「王様のクセに変なのぉ──」
幼い臣下は、愉快そうにけたけたと笑った。
眉間に皺を寄せていた偉大なる皇帝が、はたと閃いたように指を鳴らした。まさしく電光石火のインスピレーションである。そのスピードは余りにも高速過ぎて、不確定要素を多分に含んだ平民らの曇った視覚には止まっているかのようにさえ感じられたことだろう。
「幼き臣下よ。類稀なる才知に溢れた忠実なる我が僕よ。そのような安易な方策を以って余の存在を公明正大なる絶対的価値観として知らしめ、かつ広く浸透せしむるとは… いやはや… 誠に以って遺憾ながら敬服せざるを得ない。余は『偉大なる皇帝』であるが、実に誉れ高き充足感に満ち溢れているものである!」
幼い臣下は小首を傾げてきょとんとしている。事の重大さが呑み込めていないようだ。
しかしながら、偉大なる皇帝ですらこうべを垂れたほどの秀逸振り。この期に及んでは物語を綴る小生などの出る幕ではないのだろう。
「城におる臣下共の中に細工を得手とする者がおるに違いない。今しがた最速でそなたの望みを叶えるべく命令を下そう」
偉大なる皇帝は、しばし待っておれ、と命令を下すと、足早に城へと向かった。
製造元の片割れは偉大なる皇帝の背中を憐憫の眼差しで見送った。
偉大なる皇帝は、偉大なる無冠の皇帝であった。