Time Control - 量子力学的思考

「相対性理論、量子力学、電磁気学、熱力学、カオス理論──どの物理理論も物理法則を表す一組の方程式を基本にしておる」

教授は仰々しく講釈を始めた。

「その方程式には空間上の位置を示す三つの変数xyzと共に、時間を示すtが含まれておる」

助手は恭しく耳を傾けている。

「この変数tの値──どの方程式でもプラスでもマイナスでも成立してしまう」
「プラスでもマイナスでも?」

「ウム。そうじゃ。つまり、時間軸を逆行するような物理現象が起きても何ら不思議ではない、と云うことじゃ」
「不思議ですねぇ…」

「にも関わらず、そのような時間の逆行は現実には起きていない」
「ええ。そうですね」

「つまりは"非可逆"と云う訳じゃ」
「はい」

「何故、"可逆"ではないのだろうか?」
「ムゥ…」

「それは物理法則が必ずしも数式のみで表現されるものではないからじゃ」
「成る程」

「例えば"因果律"」
「"原因は必ず結果に先んずる"と云う法則ですね?」

「ウム。だが、果たして、因果律は物理法則と呼べるのだろうか?」
「…と云うと?」

「原因や結果とは非常に曖昧な概念であって、機械なりで測定することはできない」
「ええ。それは…」

「それを判断するのは"人間の知性"だけじゃ」
「云われてみれば、そうですね」

「"原因は結果に先んずる"と云うのは"時間は逆行しない"と云うことを、経験則として換言しただけであり、因果律を物理法則と捉える根拠は非常に稀薄じゃ」
「かも知れませんね…」

「では、熱力学の第二法則"エントロピーは時間と共に増大する"ではどうだろうか?」
「熱力学──」

「これは時間の方向性を含んでおる」
「ええ。ですが、この法則には"時間"と云う言葉が既に遣われており、時間の向きが既に決定されていることを前提とした上での法則だと云えますね…」

「ウム。何故、時間の向きは決まっているのだろうか?」
「何故でしょう?」

「ここで天文学にスライドしてみる」
「天文学──」

「宇宙は常に膨張しており、未来へ行くほど大きくなる、とされている。──この辺りに答えがありそうじゃな」
「ええ。宇宙の大きさやエントロピーの大きさを測定すれば、成る程、時間の方向は決められるかも知れませんね…」

「ウム。では、それらを測定せねば時間の流れは分からないのだろうか?」
「ムゥ…」

「例えば、眼を瞑じたら時間の流れは捉えられない?」
「ええっと… や、そんなことはありません。意識は時間と共に流れてゆくから時間の流れは分かります」

「そうじゃろ? つまり、"時間の流れ"とは"意識の流れ"であり、"人間の意識"が"時間の流れ"を作り出しているのじゃ」

「や、そうでしょうか。それは些か乱暴過ぎる気がしますが… 主観と客観を混同しているだけのような…」

「では、何故、意識に時間の流れがあるのじゃ?」
「えっと… それは"記憶のメカニズム"に関係していると思います」

「記憶のメカニズム?」
「はい。過去は記録できますが未来は記録できません」

「ほう。続け給え」

「記憶とは記録のことです。記録する能力を持つのは、何も"意識"だけではありません」
「ウム」

「例えば、オーディオテープ、ビデオテープ、CD、DVD… 他にも様々な記録媒体があります。"意識"などと云う有機物ではなく、すべて無機物です」
「そうじゃな」

「最もアナログな記録媒体は"紙"だ、と」
「ウム。人類が生み出した優秀な記録媒体のひとつじゃ」

「過去のことを記録できて未来のことを記録できないのは意識も同じだと思います。まさか、教授は紙とペンが時間の向きを決めている、とでも仰りたいのですか?」

「シュレディンガーの猫」
「!?」

「量子力学に登場する、コペンハーゲン解釈に関する"逆説"」
「それで一体、何が?」

「閉じた箱の中に一匹の猫と一個の放射性原子が入っている。この原子の半減期は1時間である。これは、この原子が1時間以内に放射線を放出する可能性は丁度50%である、と云うことじゃ」
「…はい」

「箱の中にはセンサーがあり、放射線を感知すると、毒ガスを発生させて猫を殺してしまうと云う仕掛け」
「はい」

「さて、1時間後に箱を開けたとき、生きている猫を発見する可能性50%、死んでいる猫を発見する可能性50%」
「ええ」

「箱を開ける前に、生きている猫が居るか死んでいる猫が居るか、既にどちらかに決まっている、と云う訳じゃ」
「そうですね」

「ところが、そう考えない物理学者が居るのじゃ」
「どんな解釈を?」

「箱の中には"非実在の生きている猫"と"非実在の死んでいる猫"が居て、誰かが箱を開けた瞬間にどちらかの猫だけが"実在化"し、もう一方の猫は消滅してしまうのだ、と」
「ムゥ…」

「箱の中に閉じ込められた猫の生死はまだ決定されておらず、誰かが箱を開けて、猫を"観察"することによって初めてどちらかに決まる、と云う解釈の仕方」
「何とも…」

「有りの儘に存在する現象を有りの儘に観察するのではなく、観察することによって初めてそこに現象が実在化するのだ、と」
「現象をそう捉えますか……」

「とても面白い解釈じゃ」
「ええ、まぁ…」

「すべての物質は、陽子や中性子や電子などの"素粒子"で構成されておる」
「ええ。そうですね」

「量子力学では、これらの素粒子の運動を計算するとき、粒子ではなく、"波動"として計算するのじゃ」
「はい。その方法によって素粒子の性質が次々と予言され、実証されて来ました」

「ウム。ただ、可笑しなことに、理論通りに振る舞う素粒子そのものを観察すると、波動の姿ではなく"粒子"なのじゃ」
「!?」

「物理学者たちの或るグループでは、この状態を『素粒子は普段、誰も見ていないときは波動の姿をしており、誰かに見られた瞬間に粒子の姿を取る』と解釈したんじゃ」
「成る程… 面白い」

「これを素粒子だけではなく、素粒子から形成されたすべての存在に拡大解釈するならば──箱の中の猫は生と死の間で揺れ動く、波動の状態だと云える」
「波動の状態──」

「誰かが見た瞬間、どちらか一方に引き寄せられる、と」
「確かに、そうなりますね…」

「これが"波動関数の収束"と呼ばれる量子過程であり、この過程は"非可逆"なのじゃ」
「非可逆──つまり、逆行できない、と?」

「そうじゃ。時間の向きに関係なかった筈の量子力学が、"意識の介在"によって逆転できなくなるのじゃ」
「ムゥ…」

「意識の介在が物理法則をネジ曲げる」
「厄介ですね…」

「だが、その逆を云うのならば──"時間の流れ"は"意識の流れ"であるのだから、その"意識の流れそのもの"を制御すれば"時間の流れ"も制御できる、と云うことじゃ」

教授は更に続ける。

「時間感覚を感知する器官…脳内にある数マイクロリットル程度の体積しかない領域…を破壊すれば、"時間の流れ"から完全に"開放"される、と云うことにはならんかね?」

助手が眼をみはる。

「"非可逆"からの"脱出"… や、可逆・非可逆が意味を成さない…」
「そうじゃ。つまり、時間は"流れない"──"通念"に支配されることはない」

助手は呆然と教授を見つめるばかりだ。

「流れる決定権を持ち得ず、認識に足る壇上に及び得ない。時間が"線"ではなく"点"として点在するようになるのじゃ」

教授が満足そうに顎髭を撫でた。

「今日の次は明日、明日の次は明後日。逆に、今日の前は昨日。昨日の前は一昨日──これら"時制"と云う社会的通念。それが理路整然と順序立てて進行することを疑わないのは、"人間の意識"がそう"信じ込ませている"からに過ぎない」

しばらく呆然としていた助手が我に返った。

「教授! 時間の概念については分かりました!」
「何じゃ。急に鼻息を荒げて…」

「その点在する時間のコントロールはできるのでしょうか?」
「ウム。私の専門は脳外科ではないから何とも…」

「では、脳外科の研究室へ行けば何か分かりますね?」
「ウム。彼らの専門分野じゃからな。私より詳しい筈じゃ」

「では、今すぐ行って参ります!」
「ウム。気を付けて」

云い終わるや否や、助手は研究室から飛び出した。教授は何度か眼を瞬かせ、女性助教授へと視線を投げた。

「どうしたんじゃ。アレは… まったく皆目見当も付かん…」

助教授が眼鏡のフレームを中指で直した。

「さぁ、また何か失敗したのでは?」
「失敗?」

「ええ。私も相談されました。『タイムマシンは理論上可能ですか?』とか何とか…」
「ははぁ、成る程。大方、例の女子高生とのトラブルじゃな?」

「ええ。そんな所かと…」
「いやはや… なかなかどうして…」

教授と助教授が顔を見合わす。

「おさかんねぃ〜」

こうして研究室での一日が過ぎてゆく。

___ spelt by vincent.

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