用人不疑、疑人不用
人を使うならば疑わず、疑わしき人ならば使わず、と言う意味。
中国での経営哲学のひとつだそうだが、疑うような人に使われるな、という従業員の声も聞こえてきそうだ。
疑 =疑う
不疑=疑わない
無疑=疑のない状態
信 =信じる
不信=信じない
無信=信のない状態
これらの定義の差異が、その人足らしめる根幹を物語るような気がする。
前者・後者共に2段目までは能動だ。
自らの意思でそうしている、ということだ。
「疑う・疑わない」「信じる・信じない」→能動・自己選択
3段目、これは客観的な第三者の観点、或いは、その空間を支配している状態定義である。
──ではあるのだが、人間の心理に依頼心・依存心がある以上、どちらの状態も概念上の定義に過ぎないと感じる。それは「嫌疑、容疑」の対義語らしきものがすぐに思い浮かばないことからも容易に紐解ける。
嫌疑
→犯罪の事実があるのではという疑い。
不起訴の理由としては、「嫌疑なし、嫌疑不十分」等が挙がる。信じているから、信じられるから不起訴に、とはならないのだ。
容疑
→罪を犯した疑い。疑いを掛けられた者を法律では「被疑者」と呼ぶ。
──であり、どちらも法律用語だ。
法律の基本姿勢が、疑うことについては十重二十重に疑い、信じることについては表層のひとひらをも掬おうとはせず限りなく稀薄である、ということを窺い知ることができる。
人を見たら泥棒と思え。
踏まえて、信・疑とは自由意志なのだ。
不信・不疑もまた同様である。
そうすることの決定権は常に自身にある。
不可信
これが所謂「信じられない」ということだ。
似て非なる意味合いとして「非可信」が挙がるだろう。
信ず可く非ず→信ずるべからず→信じるな
不可疑
これは「疑えない」ということだ。
上述に準えて「非可疑」を挙げてみたい。
疑う可く非ず→疑うべからず→疑うな
不可信・不可疑
これはアビリティがない、単純にそうする能力がない。能動的にそうしているのか、受動的にそうさせられているのかは、当人すら判別不能かも知れないが、兎にも角にも、そうすることが不可能である、ということだ。
或いは、反語的意味合いも含まれている。
信じられない→信じようがない→信じられようか?→否、疑うより他ない
疑えない→疑いようがない→疑えようか?→否、信じるより他ない
双方ともにアビリティではあるのだが、そうすることを奪われてしまう、という意味合いをも含んでいる、ということだ。
非可信・非可疑
これは命令だ。呑む・呑まないは被弾した側の意思に依るのだが、これを放つ側は大抵がそうであることを強く望んでこれを放つ傾向にある。
「信じるな!」
「疑うな!」
ともすると「犯人の言い訳」にしか聞こえないから不思議なものだ。
また、面白いことに「信・疑」は対義語だが、「不信・不疑」をそれぞれに当て嵌めてみると、余りにも乱暴な対比となる。
不信=疑
不疑=信
ではないから、これまた厄介だ、と。
平たく──、
信じてないからと云って疑っている訳ではないし、疑っていないからと云って信じている訳でもない。
これでは対を成しているとは言い難い。
不信 != 疑
不疑 != 信
これは「不可信・不可疑」にも当て嵌まる。
不可信 != 疑
不可疑 != 信
信じられないからといって疑っている訳ではないし、疑えないからといって信じている訳でもない。
能動領域では必ずしも「逆は真なり」という判断を下さないのだ。
というより、本来、同一線上に並んでいない別物同士を同じ比較論の上に並べてしまい、そのことに気付かぬままに比較演算を行ってしまう、という我々の思考回路のバグがそうさせてしまうのだ。
つまり、正確には「あれはあれ、これはこれ」と分類できていないのにも関わらず、結構な高確率で一緒くたにごちゃ混ぜにしておいて、勝手に自分で訳分からん状態に仕向けている、ともいえる。
人は潜在的に能動的にバカなのだ。
故に、死ぬまで生きてゆける。
このスペルで登場した語群を列挙してみる。
信・疑
不信・不疑
無信・無疑
可信・可疑
不可信・不可疑
非可信・非可疑
眺めてみると、否定的な「不・無・非」の捉え方の違いで解釈の差異を生む、ということが推測できる。
可信・可疑。これらは登場していないが、後半語群の理解の助力として追加した可能動詞だ。これがないと、「不〜」「非〜」が成り立たない。
平たく、「信・疑チーム」と「可信・可疑チーム」である。
この2チームを眺めていると、また新たな疑問が生まれる。否定的な「不・無・非」の在り方だ。
非信・非疑
無可信・無可疑
これらの語群が現れていないことに気付く。というより、そんな言葉は最初から存在しないのだろう。
造語もいいところだが、意義解釈に努めてみる。
非信
漢語的に「信に非ず」と解釈すると、「無信」と同等なのか? つまり「非信」とは「信のない状態」なのか、という問いである。
否、能動に状態定義は成し得ない。状態定義とは完全な客観であって主観では決して成り立たないのだ。それは天候などが主観で左右されないことからも容易に理解に至る。気の持ちようでどうにかできるのは自身の心情のみだ。
非信 != 無信
非疑
こちらも同様に「疑に非ず」と解釈してみる。そこで「無疑」と同等か、という問い。「非疑」とは「疑のない状態」なのか──。
逡巡、やはり、こちらも成り立たない。
非疑 != 無疑
無可信・無可疑
これらはアビリティの話だ。能力の有無。それらが「無」で打ち消されている、ということは──単純に可哀想だ。
ちょっと、横道に。
「可哀想」というのは、「哀しく想うことが可能である」という可能動詞であると同時に、「哀しく想う可く」という命令形が含まれている。
つまり、これ以外の言葉にも遣われている「可」には、アビリティと共に「そうすべし」という命令が含まれているのだ。
巻き戻して、
無可信
信ず可くこと(もの)が無い。
無可疑
疑う可くこと(もの)が無い。
こう解釈すると、前者は可哀想なままだが、後者に至っては聖人君子が後光をまとって降臨し、一陣の涼風が吹き抜けてゆくようだ。
内面に巣食う魔窟ヘドロが一瞬にして浄化される。
或いは、こちらも反語的解釈が成り立つ。
信ず可くも無く→信じるべきか?→否、疑うべきだ
疑う可くも無く→疑うべきか?→否、信じるべきだ
ところで、「イ(にんべん)」に「可」で「何」だが、一体、何の可能性と命令が含まれているのだろうか?
閑話休題。
「用人不疑、疑人不用」から、よくもまぁ、これだけ捻り出せるものだ。自画自賛ながら感心する。
──などと嘯きながら脳内会議の相手に共感を募る。
「今回のスペル、結構よくなくね?」
「や、どーでもよくなくね?」
「何でよ? 泣く泣く捻り出したのに、よくなくねってマジなくなくね?」
「つか、付加疑問ばかりで共感得ようとするのってマジウザくね?」
「付加疑問って?」
「え? 『よくなくね?』とか『なくなくね?』とか全部、付加疑問じゃね? そんなことも知らないでしゃべくるとかマジ有り得なくね?」
「や、有り得なくねとか結構マジ無理。マジ勘弁。めちゃ凹むわぁ〜」
「つか、今どきこんな喋りしてる奴マジ居なくね?」
「分かりみ〜」
そんな感じで♪
*2016.12.13・草稿