「銀狼」
眠らない街の下卑た電飾が黒だかりの森の欲望をくすぐる。雑踏と喧噪──。固く閉ざされたアスファルトから狂った周波数が伝わる。真っ赤に錆び付いたナイフの風を満身に浴びながら彷徨う。
雑踏と喧噪の隙間から他を威圧する異質な周波数。はたと面を上げると白銀の狼。前脚を一本欠いた銀狼が黒だかりの森に紛れ、息を潜めていた。
周囲を見渡したが、森の樹々はこの状況が呑めていない。森の樹々は毒々しい発光体にしか反応を示さない。ひとり歩を停め、銀狼に視線を固定した。
向こうもこちらに気付いたようだ。銀色の牙を覗かせ、鈍色の眼光を投げて来た。
「──我が見えるのか?」
銀狼は直接頭蓋に響く周波数を発した。
「お前は?」
発声せず問う。
「無礼な。お前にお前呼ばわりされる覚えはない」
「一体、何をしているんだ?」
「知れたこと。追っているのだ」
「何を?」
「黙れ。お前と同じものに決まっておろうが」
銀狼が何かを察知した。
「──来た。獲物だ。捉らえて糧とせよ」
露骨に肌を露出した女が肢体をくねらせ歩いていた。怪訝な表情を浮かべたまま立ち尽くす。
「だらしない。退いておれ」
頭蓋に響いた瞬間、地を這う体勢から宙を舞った。鋭利な爪が女の躰の自由を縛った。金属質な女の悲鳴。腹の底に滲みる咆哮。銀色の牙が喉笛を掻き抉り、白い乳房を薙ぎ貫く。
深紅の海が漆黒のアスファルトに拡がる。肉を食む音と骨を砕く音とが鼓膜を呪縛する。為す術なく呆然と立ち尽くす。
銀狼が眼光を向ける。うっすらと慈悲の光すら見える。
「どうした? まるで乳飲み子だな」
何も応えない。否、応えられない。銀狼が嘲笑うようにひとり悦に浸る。
やがて、すっかり喰らい尽くすと、欠けていた前脚が再生された。それを柘榴の舌で満足げに舐め取ると、銀狼はその場から消えた。
『虚を食め。そして、孤を抱け──』
去り際に頭蓋の内側に呪文がこびり付く。雑踏と喧噪とが爛れたシーンを掻き消す。
「断崖」
滅多に鳴らない携帯電話がけたたましく喚く。悪夢から引き剥がされるように耳に押し当てる。
「どうした? 見たくはないのか?」
銀狼──。頭蓋に直接響く周波数。
「何故、この番号を?」
「くだらん。どうでも良いことを訊くから何も見えぬのだ」
「お前の姿は確かに見えた……」
「──それは当然のこと」
「何故?」
「追っているものが同じだからだ」
口の中の水分が蒸発してしまうような不快感。眉間に深い渓谷が刻まれる。
「──そうだ。谷だ」
「谷?」
「谷に往けば、お前の望むものが見える」
周波数が途絶えた。
『虚を食め。そして、孤を抱け──』
薄明かりが差し込む部屋の仄暗い壁面が両側から押し迫る。振り払うように紫煙を燻らしたが、指先が痙攣していた。やがて、重圧から逃れるように部屋から離脱した。
『谷へ──』
脳細胞繊維に谺のように乱舞する。黒だかりの森を目指した。
『森を抜ければ谷が在る筈だ──』
蹌踉めいた確信と誘惑の幻想が入り乱れる。衝き動かされるように地を蹴る。
「咆哮」
相変わらず黒だかりの森は優雅に唾液を垂れ流す。粘液で腐敗しても気付かぬままに息絶える。
靴底から伝わる見窄らしい周波数。嘔吐感に苛まれながらも頑に口許を結んだ。
ひと際大きな嬌声が轟く。一瞬びくっと肩を竦め、歩を停めた。
「ん? 何だコイツ? やんのか?」
脳波のイカれた茹で蛸が酒気を漂わす。取り巻きの蟷螂と食用蛙がみっともなく頬を弛ませる。
「何睨んでやがる? 文句があるなら──」
吐き終わるや否や、喉の奥から突き上げる波動が堰切った。臓物をすべて吐き出してしまう咆哮マグマが噴出する。そのマグマに茹で蛸と蟷螂と食用蛙はどろどろに灼かれた。
男は変化に気付いていなかった。否、意識せず完全メタモルフォーゼしていた。
いつの間にか四つ脚で歩いていた。男は狼に姿を変えていたのだ。
溶解した緑の粘液に背を向けると谷を目指した。銀狼の待つ谷へ──。
『虚を食め。そして、孤を抱け──』
呪文の意味が紐解け掛かっていた。
「食んでやる。待ってろ──」
メタモルフォーゼした孤狼の眼光には蒼白の悲愴感が宿る。
「飛翔」
果たして、谷は眼の前に在った。
否、谷ではなく塔。黒だかりの森を突き刺すように、摂理に反した重力の逆行を非道く陳腐に誇張する。
原生的な直感が孤狼を一番高い塔へと向かわせた。
「銀狼は待っている。必ず──」
蒼白の悲愴感がいつしか恍惚の期待感に変わっていた。紅蓮の焔が舞い散りながら眼光を縁取る。
頂きに到達すると、月光シャワーを浴びた銀狼のシルエット。
「ウム。よく分かったな──」
「一番高い塔の眼下には断崖が拡がっている」
銀狼が眼を細める。
「見よ。屑星で敷き詰めたまやかしの絨毯を」
切迫した黒だかりの鬱積が渦巻く欲望で発光していた。
「実に禍禍しい──」
銀狼はそう呟くと月を仰いだ。
「黒だかりの森は虚に満ちている」
「そうだな。そうかも知れないな」
銀狼の傍らで孤狼が呟く。
「我らは虚の餌食ではない。逆に喰ろうてやるのだ」
「それが虚を食むと云うことなのか?」
銀狼は孤狼を見遣る共なしに哀憐を注いだ。
「──可哀想な輩だ」
そう云うと、断崖の淵に立った。孤狼が眼を瞠る。
次の瞬間、銀狼の背中から銀色の翼が生えた。そして、透明なレールを滑るように天空を舞う。
「お前は一体…… 何者なんだ?」
「何者でもない。虚を食み、孤を抱く者」
「──」
「飛翔せよ。虚を食むとはそう云うこと」
「──」
「虚を食めば孤を抱ける」
微かな周波数が途絶えると、銀狼の姿が蒼白い月に呑み込まれた。孤狼の遠吠えが慟哭のように響き渡る。
慟哭の余韻醒めやらぬ中、孤狼の躰が暗闇に浮かんだ。
「摂理」
孤を抱いた魂の器は、やがて、血に飢えた翼の糧となる──。