自分のためだけにお金を遣いなさい・急

Sは老紳士Mの到着を待っていた。相変わらず、札束を凝視したままだ。額から大粒の汗が流れ落ちる。背中にも無数の虫が走った。

「…何やってんだ、俺は! この暑い中、部屋の窓、閉めっ切りじゃねえか…」

テーブルの上にあったリモコンをひったくり、エアコンのスイッチを入れた。せき切ったように冷風が吹き出す。額の汗を手で拭うと、頭の中で警報音がフェイドインして来た。

ワーニング! ワーニング! エマージェンシー! エマージェンシー! 分かってるよ、そんなことは! うるさい、大人しく待ってろ!

彼は煮えたぎった頭をなだめようと必死だった。

発信器だと? まだ、話してないことって何だ? 一体、俺は何に巻き込まれたんだ? 何か悪いことしたか?

まぁ、多少、思い当たる節がない訳じゃねえが… それにしても異常事態には変わりねえ… 何なんだよ、一体…

彼は謎の老紳士Mに冷静に、と云われたが、それどころではなかった。エアコンの冷気が頭を冷やしてくれるのを待つしかなかった。

まぁ、ジタバタしても始まらねえ。よし、彼が来たら問い詰めてやろう。俺に非はねえ。洗いざらい白状させてやる…

彼は腹をくくると、ソファから立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルタブを倒し、ひと口呷り、ひと呼吸。札束の前に缶ビールを置いた。

部屋の温度も徐々に下がり、何とか平静さを取り戻した。

果たして、老紳士MとSは対峙した。テーブルを挟んだふたりの真ん中には例の札束がしれっと鎮座していた。

「やぁ、Sさん。お待たせいたしました」

老紳士Mが口火を切る。

「一体、どういうことなんだ? 説明してくれ」

Sは腕組みをして老紳士Mを見据えた。

「どうか気を鎮めて下さい。実に簡単な話なのです」
「じゃあ、俺のこの苛立ちも簡単ってことなんだな?」
「まぁ、落ち着いて下さい」

Sの鼻息は依然として荒い。

「あなたは或る実験に参加しているのです」
「実験だと? 俺はそんなこと聞いてねえぞ」
「それは謝ります。ですが、あなたも拒否せず、わたしの申し入れを受けてくださった」
「や、金をやると云われて無下に断るやつはいねえだろ」
「いえ、私だったら訝ります。何せタダより怖いものはない、と云いますし」

Sが眉をしかめる。

「それはさておき。あなたは或る実験に参加しているのです。わたしはその説明を省いてしまっていた。その説明にお伺いした次第です」
「だから、何の実験なんだ? 分かるように説明してくれよ」

老紳士Mは、ひと呼吸置いた。

「あなたは貨幣制度について、どう思われていますか?」
「…何だって!?」
「平たく、テーブルに置かれているお金について、です」

Sの視線が札束に向けられる。

「これは… その、なんだ… あんたから貰ったゼニだよ」
「ええ、そうです」
「このゼニについて、どう思うかってことか?」
「ええ、そうです」
「や、どうもこうも… 単純に『ラッキー』てなとこか…」
「そうですか」
「何もしてねえのに百万貰ったんだぜ? ラッキー以外に何があるってんだよ…」
「ですが、あなたはそれで困っている。ラッキーならば困ることはない。違いますか?」
「ん、まぁ、そうだな…」
「だのに何故、あなたは困っていると思いますか?」

Sの視線は虚空を追う。

「何故…? やぁ、あんたの出した条件が厳しいのさ」
「はて、自分のためだけに遣う、と云う条件が厳しい?」
「ああ、そうだよ」
「それは何故?」

Sは普段使わない脳細胞をフル回転させた。徐々に霧が晴れるような表情を見せた。

「ははぁ、分かったぞ…」
「お分かりになりましたか?」
「ああ。何故、俺は困っているのかがよく分かったよ」
「それは何でしょう?」

Sがひと呼吸置く。

「さっきのあんたの質問、貨幣制度が何やらって… その答えが分かったぜ」
「是非、お聞かせ下さい」

Sは身を乗り出した。

「普段、深く考えてもみなかったが、ゼニってな… や、もっと大きく云おうか?」
「ええ、どうぞ」
「貨幣制度ってな、資本主義、社会主義を問わず、様々な価値観が存在する人間社会において、一様な価値観を、お互いが認識できるように工夫したシステムだ」
「ほう、的確で立派な定義ですね」
「様々な価値観ってのはな。例えば、水についてだが──砂漠でオアシスを探してる人ならいざ知らず、庭の水撒きついでに水ぶっかけられたら堪らないだろ?」
「そうですね」
「こんな具合に水ひとつとっても、状況によっては価値観がまるで変わっちまうんだ。一事が万事。何かしらの基準を設定しなきゃ、何もうまく回らない。その解決策が貨幣制度なんだよ。だから、自分のためだとか、他人のためだとか。そもそも、どちらか一方に偏っているはずがねえんだよ。云うなれば、お互いのためさ」
「そうですね」
「そんなこんなで、あんたの出した条件ってのが、そもそも破綻しているんだ」
「なるほど」
「ああ。俺が困ってるのは、それが理由さ」

しばらく沈黙するふたり。

「で、一体、何を説明してくれるんだ?」

Sが口火を切る。

「結局、俺はこのゼニを遣えないってことになるんだが」
「そこです」
「は? そこかよ」
「ええ、そこがこの実験の根幹なのです」

Sは唸った。

「やぁ、あんたの理屈からするとこうなるんだろ?」
「どんなるんです?」
「例えば、俺が腹を空かしている。で、レストランでも何でもいい。何か食いに行く」
「ええ」
「食い終わったらレジ行って料金を支払う。無銭飲食は捕まっちまうからな?」
「ええ、そうですね」
「こんなのも『自分のためだけ』って条件からは外れんだろ?」
「よくお分かりで」
「や、そりゃそうだろ。ちょっと考えればわかることさ。空腹を満たしたのは俺だが、料金を支払えば飲食店なりの…他人も利益を得ることになる。だから、『自分のためだけ』って条件を満たしているとは云えない」
「そうです。相互利益ではダメなんです」
「だろ? だから、結局はゼニを自分のためだけに遣うことなんてできねえんだよ」
「それでも、あなたに与えられた条件は変わりません」

またもや沈黙がふたりを包む。

「や、黙ってねえで説明しろよ。押し問答してても始まらねえ」
「ええ、そうですね。あなたは聡明な方だ。貨幣制度について熟知されている」
「はっ、所詮、その制度に絡まって生きているだけさ」
「そう、そこなんです。我々は気付かぬうちに貨幣制度の奴隷と化しているのです」
「随分、大きく出たね…」
「大袈裟ですか?」
「や、そうは云ってないが…」
「お金がなければ何もできない」
「まぁ、先立つものがねえとな…」
「いつからそんなふうに考えるようになったのでしょうか?」
「いつから…?」
「ええ、誰からかに教わりましたか?」
「や、きっちり教わった覚えはねえが…」
「ですよね? 気付かぬうちにこの制度に組み込まれてしまったのです」
「まぁ、大袈裟でも何でもなく、事実としてはそう云うことだな」
「これは、それを打破するための実験なのです」

Sが唸る。

「この実験は、現在敷かれている貨幣制度に、あえて極端な条件を設定し、これに代わる他の代替制度を構築するために行われているのです」

Sが苦笑を浮かべた。

「随分と仰々しい実験に借り出されちまったもんだな…」
「わたしも、その被験者の一部です」
「と云うと?」
「わたしの条件はあなたとは真逆。他人のためだけにしかお金を遣うことができない」
「そうなのか?」
「そうなのです。ですから、わたしはあなたへお金を差し上げたのです」
「なるほど、他人のためにしか遣えない条件なら、他人にくれてやるより他ない」
「ええ、わたしには何の利益もありません」
「どうでもいいが、何処から出てくるんだ、そのゼニは」
「それは云えません」
「何故?」
「云えばわたしの身に危険が…」

老紳士Mの表情が強張る。

「まぁ、それはいい。どっちにしろ、あんたも俺と同じ被害者だ。これ以上、追い込むつもりはねえよ」
「ありがとうございます」
「ただ、俺もそうだが、あんたも条件を満たしているとは云えないぜ?」
「と云うと?」
「あんたのゼニは俺のためにはなっていない」

老紳士Mは目を瞠った。

「遣えねえゼニ貰ったところで、ただのぬか喜びだ。そうだろ?」
「確かに…」

老紳士Mは押し黙ってしまった。Sは彼に憐憫の眼差しを向けた。しばらくして薄笑いを浮かべた。

「あんたを追い込んでるやつが何処の誰だかは知らねえが、いけすかねえな。やぁ、人は外見じゃ判断できねえって云うが、あんたは俺よりはよっぽど善良な市民だと思うぜ」

Sは俄かにそわそわし始めた。

「そんなあんたが、よりによって何故、こんな実験に? 筋が通らねえ──やぁ、あんたの後ろの棚から灰皿取ってくれないか」
「灰皿ですか?」
「ああ、ガラスの大きなやつがあるだろ?」
「ええ、これのことですね」

老紳士Mはサイドボードに置いてあったガラス灰皿を手に取り、Sに手渡した。

「何をするつもりですか?」

老紳士Mが怪訝そうな表情で尋ねると、Sは少年のように笑った。

「燃やしちまうのさ」
「え?」

云うが早いが、彼はテーブルの札束をオイルライターで点火し、ガラス灰皿に放った。老紳士Mが目を瞬かせている。

「何てことを…」

ガラス灰皿の中でめらめらと炎が立ち上った。札束が燃え尽きるまで、Sは天使のような微笑を浮かべたままだった。老紳士Mは、呆気にとられたまま、なす術もなく炎を見つめているばかりだった。

やがて、すっかり燃え尽きてしまうと、ようやくSが口を開いた。

「──これで、よし、と」
「何がよし、なんですか?」

Sが老紳士Mに視線を向ける。

「これでふたりとも条件を満たした」
「一体、どう云うことですか?」

Sの口許が綻ぶ。

「あんたの条件は他人のためだけ」
「ええ」
「俺の条件は自分のためだけ」
「ええ、そうですが、燃やしてしまってはあなたに利益はない…」
「利益?」
「そうですよ。わたしもあなたのために遣ったことにはならない…」
「や、あんたは俺のためになってるんだなぁ」
「どうして?」

Sが片方の眉を上げ、悪戯っぽく笑った。

「気分がいい──」

老紳士Mがぽかんと口を開けた。

___ spelt by vincent.