意味・理由・目的

意味・理由・目的。この3点を物事の成就に据えたとき、動機としては十分相当すると考えられる。

~をする意味。
~をする理由。
~をする目的。

それぞれが明確であれば、その物事が成就する確度は高まる。本気さ・真剣さの度合い、とも云える。

また、この3点は相互補完の関係であるとも云える。

意味があるから理由が立ち、理由があるから目的に繋がる。そして、その目的こそが意味なのだ、と。

或いは、このチェーンは順不同だ。どこを起点としてもグルグルと旋回する。然るに、動機の基軸はこの3点からと云っても過言ではない。

さて、この3点だが、人間の本能に根差した思考だろうか?
つまり、人間が生きてゆく上で潜在的に授かった思考なのだろうか、という問いだ。

食欲・性欲・睡眠欲。この3点の相関図は皆さん既知だろう。人間の3大欲求の一例だ。

このみっつのうち、ふたつが満たされていれば、残りのひとつは我慢できる、と云われている。

食欲と性欲が満たされていれば余り寝なくても大丈夫で、性欲と睡眠欲が満たされていれば食欲は抑えられる。睡眠欲と食欲が満たされていれば性欲は抑えられる、と。

このロジックからすると、効果的なダイエットには性欲と睡眠欲を満たせば良さそうだ。ん?

物凄い画が想像されたがさておき…

この「ふたつ満たせばひとつ我慢できる」のロジックを適用し、先述の意味・理由・目的に当て嵌めて考えてみる。

意味・理由が満たされれば目的は我慢できる。
理由・目的が満たされれば意味は我慢できる。
目的・意味が満たされれば理由は我慢できる。

些か抽象的過ぎる気がするので、具体的に某かを当て嵌めてみる。

意味・理由・目的というのは、それぞれ1本では立たない。某かの一義があって、その枝として3本ぶら下がっているイメージをして欲しい。

例えば、「高給取りになる」。その枝として意味・理由・目的の3本がぶら下がる。これならば描き易い。

さて、意味は? 高給取りになる意味。パッと出て来ないから次へ。理由。理由は簡単だ。「今より金が欲しいから」だ。次に目的。これは金の遣い道でそれぞれに分岐するだろう。借金などの返済に充てる者。欲しい物を買う者。或いは、貯蓄に回す者──金の遣い道において、高給取りで果たせる目的は多岐に渡る。

さて、飛ばした意味だが、高給取りになりたがる意味とは何だろうか? 多分に情緒的要素で満たされているような気がするのは僕だけだろうか?

「金持ちだと思われたい」「羽振り良く見られたい」「今より金を自由に遣いたい」等々。だが、これらは目的に類するのでは、と。

これは目的が意味に成り代わる好例のひとつだろう。綺麗事風に意味を演出すれば「今とは違う自分になる」という意味が立つ。

さて、この3本。2本取りできれば残1本は我慢できるのだろうか? 否、我慢ではなく、成り立つのだろうか?

更に潜り、この例で挙げた意味・理由・目的はそれぞれ成立しているのだろうか?

否、それぞれが解け合って一緒くたである。云うなれば、漠然と金が欲しいだけの理由が先行し、意味・目的が希薄だ、と云える。
ま、乱暴な例だから致し方ないが…


この意味・理由・目的の3点は局所的に当て嵌めることでしか緻密な論を展開できない。
そもそもの一義が曖昧で漠然とした事柄には当て嵌まらないのだ。

例に挙げた「高給取りになる」という義は、まず、方法手段から選択が限られている。

どういうことかと云うと、高給取りということは某かの従業員であって、「自身が事業を興して云々」という選択肢は除かれている、ということだ。

ならば、そこでの業績なりを上げてゆかねば、掲げた義は果たせない訳だ。
ここで義がすり替わる。業績を上げるためにはどうすべきか、というより明確な義へと。

例に挙げた一義の解を示さ(せ)ないまま先に進めるのも忍びないが、業績を上げるための3点はそれぞれが思考を巡らせば良いだろう。そんなことが簡単にできるならば、とうの昔に完遂している。

或いは、巷に溢れるビジネス本やサクセスストーリーなどが途端に矛先を失い、軒並み失脚する。


さて、ここからが本題。
意味・理由・目的の3点。それぞれ大仰なお題目を挙げたが、これらがなくても人は生きて行けるのだろうか?

生きる意味もなく、理由もなく、目的もなく、ただ、漫然と生を貪る。
無為に生を食い潰す。そして、名もなき野花のように朽ち果てる──。

観念的に捉えれば、恐ろしくストイックで崇高な領域かも知れない。俗物には及びもつかない浮世離れした着想だ。


我々人間には天敵が居ないので、捕食されて絶命する、という危険はない。また、戦闘を日常としていないのが一般的なので、戦いに敗れて絶命する、ということもない。

そう考えると、自身の死というのは大括りでいうと「自滅」ということだ。

「死に方を選ばせてやる。お前はどうする?」
「はぁ、では寿命で」

殺し屋に追い詰められたら、こう答えると良い。そんなシーンがあれば、の話だが。

交通事故なりで命を落とす以外は、すべて自滅なのだ。或いは、その事故なりも穿って考えれば自滅と云える。

原因があっての結果だ。不運・幸運の分岐に依らず、そのような目に遭う・遭ったということは、当人がその場に居合わせたからだ。自滅以外の何ものでもない。


果たして、最終的には自滅で終わるものに意味・理由・目的というものは成り立つのだろうか? 或いは、必要なのだろうか?

成立・不成立は別として、要・不要で云えば「要」と云える。
先に挙げた3つのお題目は、他者の理解を促すために必要なのだ。

本来、自身で理解していることを他者と共有する必要はないのだが、それは観念論であって、日常というものには必ず他者との交わりが関係してくる。

「何を考えているのか分からない」

突き詰めて考えれば、何を考えているのか分からないのはお互い様なのだ。それは某しかのコミュニケーションを取ったとしても変わらない。何処まで行っても本質的には理解不能なのだ。

分かったつもりになるのは早合点、或いは、勘違い、思い込みが激しいだけ。理解とは、恐ろしく高次元、或いは低次元に居座っているものなのだ。

「そんな意味があったとは知らなかったよ… 自分の浅はかさに涙が出るよ…」
「え? そんなくだらない理由なの? 死にたくなるほどどうでもいいことだよね? 付き合って損したよ…」

そんな中で他者との共有をある程度円滑にするために、意味・理由・目的を掲げて、理解を促すのだ。人は某しかを掲げれば、ある程度は理解しようと努めるものだ。逆に、取っ掛かりが何もないと、そのことについては脳天気に華麗にスルーする。スルーしたところで何も問題がないからだ。

これらを踏まえると、意味・理由・目的が満たされたところで何も成し得ないと云える。

理解は通過点。

ただただ、通過点を通過しているだけなのだから、某しかが成し得られたとは云えないのだ。

その次。Next one.がなければ、そこで終わる。

物事の大抵が意味・理由・目的に縛られ、それを成し得ないままに消滅しているような気がしてならない。

意味は分かった。
で、その意味ってのは本当にそうなの?
そこに至る理由が分からない。

理由は分かった。
で、その理由ってのは誰のためなの?
その目的が分からない。

目的は分かった。
で、その目的ってのは今、必要なの?
その意味が分からない。

こんな感じで、相互補完的に分からなくなったりしているのではないか、と。


生きる意味もなく、理由もなく、目的もなく、ただ、漫然と生を貪る。
無為に生を食い潰す。そして、名もなき野花のように朽ち果てる──。

この観念が恐ろしく高次元で崇高な領域なのかが理解できるだろうか?
僕は理解できる。

故にズラズラと綴っている訳だが、これは承認欲求的に綴っている訳でも、理解を促すために綴っている訳でもない。

では、何故、綴るのか?

意味は「スペルを1件追加すること」。
理由は「綴りたいから」。
目的は「ああ、こんなこと考えていたんや、と反芻するため」。

ね、恐ろしく低次元でしょ?


自己満足度を高めるためだけに人は呼吸する。
生が潰える瞬間刹那まで性懲りもなく飽き足らず──。

意味・理由・目的。
この3点を思考から排除せよ。

…ではあるのだが、この3点は俗物の共有財産。
大事にしよう。

我が魂の命ずるままに──。

*2017.01.30・草稿

___ spelt by vincent.