某日、偉大なる皇帝は深く思い悩んでいた。
近年稀に見る絶不調に見舞われ、皇帝の思惑通りに統治することが困難を極めていたからだ。
彼は、この世に生を授かった瞬間刹那から、この世にある一切の万物を須らく統治すべし、と云う平民には到達し得ない重責を背負っている。
この絶不調が長引けば、万物の存続はおろか、皇帝自らの統治能力に疑問あり、と叩かれても致し方ない。
そのような事態を避けるべく、やはり、流石は偉大なる皇帝である。平民の不満なりに耳を傾けようと云う方策に至った。
これは保身の考えから端を発した方策ではない。万物を統治せねばならぬ皇帝の苦悩が、物語を綴る小生などには及びもつかぬほど高次元の問題であろうことは想像に難くない。
飽くまで、推測の域を出ていないが「慈愛」──この言葉が脳裏をよぎる。
無限に広がる大宇宙のような寛容さと深遠さとが彼を衝き動かしたに違いない。まさしく、感涙である。偉大なる皇帝に燃えるような情熱の真っ赤な薔薇を…☆
皇帝は平民でも解釈に易しい言葉を選定していた。彼の目下の悩みは「自分の言葉が相手に理解されない」と云うことだったからだ。何度も煮え湯を飲まされ続けている。
だが、これでは肝心の意思疎通が図れない。「ここは余が降りるべきである」。偉大なる皇帝、苦渋の英断である。学習能力の高さは他に類を見ない。
『悩み相談室』
このように銘打たれた。
「ウム。これでよし、と。如何に愚鈍であってもここまで噛み砕けば、解釈に時間は要すまい。自画自賛するものではないが、なかなかに言い得て妙である」
満足げに微笑をたたえる皇帝であった。暫くすると、ひとりの平民が訪れた。
「あのぅ…ここでいいんですか…?」
身なりの粗末な平民であったが、皇帝は臆することなく満面の笑みで応じた。
「ほう。早速、聞き及び駆け付けて参ったか。そうである。この場でそなたの悩みを聞いて進ぜよう」
身なりの粗末な平民は卑屈な笑みを浮かべながら云う。
「いやぁ、悩みなんて大それたことじゃねえんで…」
「ウム。遠慮には及ばん。何でも申してみよ」
「へぇ、んじゃ、まぁ…」
身なりの粗末な平民は腹の辺りを指差しながら、
「おとついから何も喰ってねえんでさ… 腹ぁ減っちまって…」
と、縋るような声で訴えた。皇帝の眉間に皺が刻まれる。
「ムゥ… 何故、そのような事態に陥るのだ?」
「へぇ、まぁ、ゼニがねえんでさぁ…」
しばし黙考。雷光。インスピレーション着火。
「ウム。稼ぎ給え」
身なりの粗末な平民は穴が空くほど皇帝を見た。皇帝は満足げである。
「如何された? 悩み解決であろう?」
身なりの粗末な平民は暫く皇帝を仰いでいたが、不意に横を向くとチッと舌打ちをした。
「使えねえ…」
身なりの粗末な平民は呪いの言葉を吐くと、ズルズルと引き摺るようにその場を立ち去った。彼の背中を見送る皇帝は満面の笑みを浮かべている。
「ウム。次の者は居らぬか? 我ながら問題解決に至る手腕たるや… 否、驕りは諌めねばならぬ。不覚、不覚…」
気の緩んだ己を自ら戒め、次の問題解決への姿勢を整える。やはり、王者の風格である。常人には到達し得ない貫禄である。
暫くすると、見覚えのある者が訪れた。偉大なる皇帝にすこぶる満足を与え、褒美を授けられた者だ。
「コーテーのおじちゃーん」
皇帝の臣下となって未だ日も浅いため、偉大なる皇帝に対しての呼称に若干の誤りはあれど、偉大なる皇帝は一度認めたものを覆すことを決してしない。それを「魂の謀反」として、激しく嫌悪するのだ。鉄壁の潔癖さである。
「おお。これはこれは。いつぞやの利発な臣下ではないか。如何された? そなたでも悩みを抱くか」
皇帝から授けられた冠を頭に乗せたまま、齢幾ばくかの幼き臣下が満面の笑みを浮かべている。
「もうマーくん! 危ないからこっち来なさい…」
かの優秀な臣下の製造元の片割れと思しき者も同伴していた。皇帝が目を細める。
「いやはや。これはこれは。いつぞやの… 未だそのような規則でこの者を縛っておるのかね。咎めるものではないが、何とも稚拙で低俗である」
製造元の片割れと思しき者が曖昧な眼差しを皇帝に向けたが、黙って頷くだけの皇帝であった。
「コーテーのおじちゃん。冠ありがとー。ものすごく人気だよー」
「おお。そうであるか。流石である」
「でもねー。頭がチクチクするのー」
「何!? それは真実であるか!?」
「うん。僕の頭のサイズと合ってないみたいなのー」
「ムゥ… かの職工め、何たる無様を…」
「でもねー。カッコイイからいいのー」
「そうであるか… 否、格好に翻弄されてはいかん。それはまやかしである」
「まやかし?」
「そうである」
「それは美味しいのー?」
「ウム。食べ物ではない」
「何だ。じゃ、つまんなーい」
「ウム。つまらんものだ」
幼き臣下は冠を付けたり外したりしながら、クルクルと皇帝のお手前で優雅な舞いを披露していた。製造元の片割れと思しき者は眉を顰めている。皇帝は目を細め、満足げに興に入っていた。
暫く見入っていたが、思い出したように皇帝が口を開いた。
「ウム。優雅な舞い、大儀であった。そろそろ本題に入り給え」
「ホンダイ?」
「ウム。そうである。悩みを相談に参ったのであろう?」
「悩み?」
「ウム。そうである」
「頭チクチクはカッコイイからもーいーの」
「ムゥ… 余の助言すらも不要であるか… 流石の優秀ぶりである」
「褒められたー。わーい。やったー」
再び、クルクルと歓喜の舞いをお披露目した。
「もーマーくん! いい加減になさい! この人だって迷惑してるのよ!?」
製造元の片割れと思しき者が、幼き臣下を咎めた。皇帝が低く唸る。
「これ、そこの製造元の片割れよ。そなたは学習能力が著しく欠損しておるのか? この者をそなたの狭い定規で測ってはならん。余ですら屈服を覚えたのだぞ? 身の程を弁えよ。恥を知れ」
皇帝の慈愛に満ちた諭しに対して、製造元の片割れと思しき者はキッと睨みを利かせて来た。
「あなただって忙しいでしょう?」
「ウム。当然である」
「私たち、これから買い物に行かなくてはならないんです」
「ウム。抑止するつもりは毛頭ない。自由に過ごし給え」
「こんな所で油を売ってる訳にはいかないんです」
「ウム。油売りを生業としていたのかね? 余は十分確保しておる。購入の意志はない」
製造元の片割れと思しき者が呆れ顔を覗かせた。幼き臣下は、例によって二者間の経緯を見守っていた。皇帝が苦笑を浮かべる。
「これ、幼き臣下よ。統治の邪魔である。時節を弁えよ。今は下がっておって宜しい」
「マーくん、邪魔してるのー?」
「ウム。邪魔ではないが、統治には不要な要素である。統治することは余の定めなのだ」
「サダメ?」
「ウム。そうである」
「それは誰がゆったのー?」
皇帝、しばし沈黙。眉間に深い渓谷のような皺が刻まれる。
「ムゥ… 誰が…?」
「うん。誰かにそーゆわれたのー?」
「ムゥ… 思考すら及ばなかった新事実である…」
皇帝はしばし呆然と立ち尽くしたのち、膝を折ってその場に崩れた。理解の助力として「orz」状態である、と付記するに留めたい。皇帝の遥か上空の苦悩が垣間見えた瞬間でもある。
「コーテーのおじちゃん。どーしたのー?」
幼き臣下が皇帝の傍らに近付いて訊いた。苦悶の表情を浮かべる皇帝は、その眩しさに気圧されるように幼き臣下を仰いだ。
「どーしたのー? 大丈夫ー?」
皇帝の目には、幼き臣下が天の使いであるかのように映ったに違いない。
一点の曇りもない澄み切った瞳──。
その眼差しが暗雲を掻き分け、降り注がれた。形容し難い心地好さが皇帝の体躯を包んだ。
「幼き臣下よ、そなたは…?」
幼き臣下は、きょとんとしている。
「ん? 僕はマーくんだよ」
「そうであるか…」
「うん。そーだよ。みんなそー呼ぶよ?」
「そうであるか…」
「コーテーのおじちゃんは?」
「ウム。余は偉大なる皇帝である」
「誰かにそー呼ばれるの?」
「否、余の言葉は平民には理解され難いようである…」
「じゃ、違うんだよ。多分」
「そうであるか… 否、そうかも知れぬな…」
「でも、マーくん、誰かに言い付けたりしないよ?」
「そうであるか…」
「だって、分からないんだからしょうがないもんね?」
「ウム。そうであるな…」
「僕だって、よくうっかり忘れるし」
「例えば…?」
「ここにおやつあったのになんでないんだろう? とか」
「ウム。何故なのだ?」
「うん。マーくん、食べたの忘れちゃったの。アハハ」
そう云うと、幼き臣下は愉快そうにケタケタと笑った。偉大なる皇帝の目頭に熱いものが込み上げて来た。
「そうであるか… 忘れておったのか…」
「うん。でも、また次のおやつまで待てばいいの」
「そうであるな。次まで待てば良いな…」
「うん。そーなの。お行儀悪いと貰えなかったり」
「お行儀か…」
「マーくん! もう行くわよ!」
製造元の片割れと思しき者が遮断した。皇帝はハッとして、その者に視線を向けた。
「ウム。そなたが一番偉大であるのかも知れぬな…」
彼女は怪訝そうな表情を覗かせていた。
「そなたに褒美を取らそう。何なりと申してみよ」
「結構です!」
ピシャリと云い放つと、ふたりはその場を足早に立ち去った。コーテーのおじちゃん、またねー、と云う声が響いた。
ふたりが消え入った方向に眼差しを向けながら洩れ出すように皇帝が呟いた。
「健気である…」
偉大なる皇帝、新たなる苦悩の開闢である。