僕は、くすぐるのが好きだ。
某西武新宿線駅前付近にある居酒屋でのこと。僕は大抵ひとりでぶらりと立ち寄るのだが、ここのお店の方々には大変お世話になっている。
「あぁ〜vincent.さん来たぁ〜おかえりなさ〜い」
僕はフツーに「おかえりなさい」に弱い。自宅を一歩出たら、ハード・プロテクトが体躯を覆う。ちゃらんぽらんに気を抜いているように装ってはいるが、内面のスタンスの在り方が何処にあるのか。僕だけは欺けない。自分に嘘はつけない。
それが瞬殺で崩壊するのだ。眉が八の字になり口許が綻ぶ。
「vincent.さんはカウンター?」
「うん。ひとりやしねぃ」
じゃ、と云ってママンが席を立つ。そこですかさず僕がその席に坐る。
「いやぁ〜僕の為に椅子をあっためてくれたんですね? 美しい気遣いだなぁ〜流石、ママン♪」
と、さらりと云ってのける。自然と笑顔が向けられる。
僕はこう云う雰囲気が好きだ。僕自身、水商売には割りと長く従事していたので、お客様が何を欲して店に足を運ぶのかを心得ているつもりだ。
シチュエーション。
金銭的なことを云えば、家で呑むのが一番安上がりだ。そんなことは資本主義で生活することに慣れている僕らにとっては当たり前のことだろう。
では、何故、割高なコストを割いてまで店に足を運ぶのか? それは、この「シチュエーション・雰囲気」を味わうためだ。
店での顔。店以外での顔。それはお互いに知らない未知の領域だ。職業や年齢はまるで関係ない。
*厳密に云うと、未成年者にはアルコールは提供できないが…
日常の中に埋没した非日常を味わう。
そこに「爽快感」なり「安心感」なりを見出すのだ。「自分ご褒美」と捉えても良いだろう。
その爽快感なりを味わうために愚痴の類いは不要だ。単純に空気が重くなる。
「聞いてくださいよ。ウチの上司ったらねぃ…」
「いやいや君んトコなんてまだマシだよ。ウチなんかはねぃ…」
こんなノイズが耳を掠めると、途端に興醒めする。
「みっともない。そんなだから卯建上がらんねん… そんなは楽屋でやれや…」
棚上げの美学。
当人が抱えている苦悩なりは当人だけのもの。苦悩、と陰の部分を取り沙汰したが、これは陽でも同じだ。
好都合は取り入れ、不都合は排除する。成る程、占いを聞いているときや読んでいるときと何ら変わらない。ただ、それでは何もならないだろうと感じる。
陰と陽、清濁併せ呑む。そこに「潔さ」を感じる。
僕は「好き・嫌い」でも同じ喩えをするのだが、「好きも嫌いも変わらない。同じことだ」と。
「意識する」と云うことにおいて何ら変わらない。本当に無関心であれば、そう云った感情すら湧かないはずだ。
感情論と云うのは、非道く曖昧で論理的ではない、建設的ではない、と捉える向きが多いが、まるで違う。
気分が良いか悪いか。
この2点に紛れもなく分岐する。0か1か。コンピュータの世界でも成立している立派な論理だ。
ここで更に深めると、感情論と云うのは表層のひと握りであることが窺える。そう云うことがあるらしい、と。
あるかないかは自分の胸に訊けば良いのだ。そこで周り近所のご機嫌を窺う必要はない。
「おもろければ何でもえーねん♪」
僕は、こんな話をした後でも必ず最後にそう云う。そして、上機嫌のままに帰路に就く。
生活を営む上で、自分にとって不都合なことのほうがより多く渦巻いている。それは誰もが同じことだと感じる。
それは「平等」ではなく「公平」に。
見えている表層のほんの一角だけで、その人の何を知ること、捉えることができようか。
見えている部分なんてものは本当に「氷山の一角」。それで全貌を窺い知ることはとても叶わない。
理解していようが理解していまいが、そんなことはどうでも宜しい。
慮る。配慮する。
これだけで十分だと感じる。当人ですらも自分自身で未知の領域を抱えているのだ。他人が知り得ることなど不可能。
慮る。配慮する──気遣いのシチュエーション。それを暗黙の了解で意識せずとも行える状況。
心地好い空間に浸る大切な時間。
僕はこの雰囲気を味わうために、またひとりで酒場へ赴く。本当は、それを共有できればこの上なく至福なのだが、それは棚上げの方向で…☆
棚上げの美学。
不都合を棚上げして逃避することを推奨するものではない。不都合を呑み、それを忘れないこと。
僕は、その方法手段としてアルコールで喉を灼く…☆
辛さ苦しさが深い分、感動もまた深い。
そんな感じで♪