2012年8月 アーカイブ[3]

自分のためだけにお金を遣いなさい・破

歩きながら尻のポケットから定期券を取り出し、自動改札機の読み取りにかざした。改札を抜けると目の前に階段がある。Sはいつも通り4番線ホームへと向かった。

ホームへ向かう階段は乗車用と降車用に分かれている。そして、どういう訳か降車用が優先された作りになっていたりする。乗車用は右端に、それこそ人ひとりが通れるくらいのスペースしか設けられていない。金属パイプの手摺で区切られ、1対9くらいの割合で降車用が優先されているのだ。

朝の通勤ラッシュと夕方の帰宅ラッシュ、時間帯に応じて乗車用と降車用を入れ替えても良さそうなものだが、ルールというものは大抵が杓子定規だ。

Sは右端の乗車用をのぼった。いつもそうしているからなのだが、確たる理由があってそうしている訳でもない。刷り込まれた自然は行為に溶ける。

階段の踊り場で金属パイプの手摺も途切れる。Sがそこに差し掛かったとき、突然、降車用のスペースから男が割り込んで来た。下から駆け上がって来たのだろうが、咄嗟に身をかわし衝突を免れた。危ねえな、この野郎… Sの眉間には皺が刻まれたが、彼は詫びるどころか、振り向きもせずそのまま行ってしまった。

『感じ悪いなぁ…』

いつもだったら呼び止めて説教のひとつでも垂れているところだろうが、今日のSはいつもと違っていた。

『あの野郎、俺が百万抱いてんの知ってやがるのか…?』

そう。彼の懐には謎の老紳士Mから貰った百万円があったのだ。

More ▶

自分のためだけにお金を遣いなさい・序

駅前に張り巡らされた歩道橋を降りると、Sは真っ直ぐに喫煙コーナーへ向かった。歩き煙草は見た目にも格好良いものではないが、喫煙者にとって肩身の狭い世の中になって久しい。

喫煙コーナーは害虫駆除でもやっている勢いで煙がもうもうと立ち込めている。背中を丸めた仕事帰りのサラリーマンなどをすり抜け、設置灰皿の前に陣取った。

徐に煙草を一本取り出し咥えた。向かいのビルの屋上に設置された電光掲示板を仰ぎながら、オイルライターで点火した。

『この時間で30℃だって? そりゃ暑い訳だ…』

一服喫い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。

More ▶

くぐもった生き方

避難口を塞がぬこと


禁則を謳った張り紙に目が留まる。しばらくして、ああ、そう云うことか、と感じた。

マンションの門扉もんぴに貼られていたのだが、開閉の邪魔にならないよう住人らに促すためだろう。通りに面した門扉の前にゴミなどが置かれていたら、地震や火災のときに避難経路を塞ぐことになる。

なるほど、ご尤もだ。

表面的にはその辺りが主旨なのだろうが、そこから枝が伸びた。

『くぐもった生き方』──である。

More ▶