愛とは始まりも終わりもない精神世界でのピリオド。
精神世界。意識の集合体。
如何様にも虚像を捏造し、また、実在するかのような錯覚を覚える。
妄想──。
極論を云えば、全て妄想である。
例えば、「死」と云う概念。
これは「意識のない世界」「時間が止まった世界」と捉えられがちだが、正確にはどちらも誤りである。
正確には、そう云った概念その他諸々が「存在しない世界」。また、そう云った「世界」そのものが「ない」。
要するに「何もない」と云う「状態」のことだ。
「死」とは「生」ある者に課せられた、絶対的な「受動」であり、「結果」「終焉」でもなく、ただただ「状態」──。
それ以上でもそれ以下でもない。
ひんやりとした「事実」。それが「真理」なのだ。
この真理に至る補足としては「自殺と他殺」について切り刻んでみると良いかも知れない。
結論から云うと、どちらも同じことなのだが流れを追ってみたい。
──前提として「飽くまで脳内において」と云うこと。所謂「スピリチュアル・ワールド」。
サイコロジカル・パラレル・ユニバース。
何故なら、実稼働を伴うそれは周囲に多大な影響を及ぼし、かつ、社会的に「好ましくない」とされているからだ。
そうでなければ「法」と云う縛りはまるで存在意義がない。「無法」などと云う概念も当人が作り出した虚像のひとつだ。
踏まえて──「殺す」と云う概念を「能動の極致」と仮定する。
ここに「善悪の分岐」はない。相対的に捉えれば、どちらも善でどちらも悪だ。双方の言い分なりを分つことはできない。ただ「自発的である」と云う観点に立っているだけだ。「能動」以外の何ものでもない。
これは、自・他ともにどちらの場合でも当て嵌まる。
更に、この仮定に至る根拠を掘り下げてゆく。
今まで流れていた「時間」を止める。
今まで働いていた「意識」を消し去る。
今まで考えていた「思考」を消し去る。
今まで動いていた「肉体」を破壊する。
等々…
これを境に「未来・可能性」などをすべて遮断する。
──「殺」とは、そう云うことだ。
「能動の極致」と仮定した意味が分かるだろう。最大の意思表示を以て「存在を消し去る」と云うことだ。
究極の否定──。
そこに「ある」ものを、全身全霊、「認めない」と云うことだ。
一流の嫌味宜しく横道に逸れれば、「駄々を捏ねる」のトップ・オブ・ザ・ワールド。それが「殺」である、とも云えるだろう。
踏まえて、まずは「自殺」。
これは字面の通り、「自分を殺す」或いは「自分で殺す」と云うことだ。
──後者は些か解釈が分岐するかも知れない。
「殺」とは能動的でありながら、客観的要素も含まれていたりする。故に、「自分で」と云う「方法手段」においての客観性が顔を出すのだ。
「未練」や「躊躇」なども、少なからずここに附随する。
しばし「自」を棚上げし、「自分が自分に殺された」と云う「受動」、つまりは「客観」に逃げるのだ。
主観から客観へスライド。
結果としては同じことなのだが、至るプロセスに違いが見られる。
「自分が自分に殺された」──ここから、ひと目盛り掘り下げ、これを自・他に分け、置き換えて解釈すると、紐解ける要素がある。
所謂「思考の足踏み」であるが、なかなかに面白いので挙げておく。
「自分が他人に殺された」
→被害意識(嫌悪感、不快感、等々)
「他人が自分に殺された」
→自己嫌悪(良心の呵責、罪悪感、等々)
こんな流れと附随する感情群の類い。これらが発生する「意識の流れ」なりが露見する。
極論から導くと、理解の度合いが極度に高まる。突き刺さるように理解できるのだ。
つまり、二元論とは一元論の派生に過ぎないのだ。一元論を完全に修了していれば、その解(と思しき仮定も含む)を以てベクトルを他に向ければ、或る程度、相応の謎が解けるのだ。
閑話休題。
「殺」の定義は上述の通り。それを自らが選択し、遂行することが「自殺」だ。
「自らで自らの存在を究極に否定する」
ここでは「苦しみから逃れる」などと云う、情緒的要素は一切度外視している。
精神世界において沈思する場合、情緒的要素を絡めると際限なく裾野が広がり、また、定義の収拾(ネームプレートの名入れ)等々が追い付かず、話が一向進まない。
要するに、ツッコミ所や引っ掛かり所が増え、都度、事あるごとに「思考の足踏み」に遮られ、頓挫してしまう、と。
脳内会議とは得てしてそう云うものなのだが、表記上、余りうまくないので割愛した。
脳内球体バブルス共を繋ぎ止めるのは容易な作業ではない。勝手気ままで… それこそ途方に暮れる。さておき…
次に「他殺」。
「殺」の仮定が理解できれば、一瞬にして氷解する。
「他の存在を消し去る」
その動機を穿って考察すると、当人が実行しないから、それを「部外者」である「こちら」が行う──と、そんな「犯罪者心理」的な動機の発生源なりが汲み取れる。
本来、「犯罪」と定義されるまでもなく、どのようなことなのかは知能指数が余り芳しくなくても分かりそうなものである。
決定権のない者が決断を下す。その愚行を「理性」によって抑止することができない。
他殺とは、ただ、それだけのことだ。
やめられないとまらない。かっぱえびせんなどとは似ても似つかぬ程おぞましい。
──だが、哀しいかな、それを内包していることは決して否めない。本当にまるで「ない」要素であるならば、それらは決して「露見」するようなことはないからだ。
殺人衝動、破壊衝動、自己否定、破滅願望──いずれも、人間の「然」のひとつだ。
「同じこと」とした意味が分かるだろうか。双方、ベクトルが違うだけで「本質的」には同じことだ。
両方ともに「存在の否定」。
そして、能動の極致でありながら、まるで昇華していない愚の骨頂──「本質」を知らぬ愚行、と云うだけのことだ。
ただ再三先述の通り、ここに至る間、「感情論」と云う「情緒的要素」が含まれていない。
このように本質を追うべく脳内ランデヴーする場合、感情論は邪魔になるだけなのだ。邪魔するだけでは飽き足らず「本質」から悉く掛け離れてくる。
感情論には「妄想」を作り上げるに余りある「不純な要素」が満ち溢れているからだ。
感情論が「建設的でない」とされる最も的確な原因がここにある気がする。
簡単な例を挙げると、「好き・嫌い」と云う「感情論」。これを脳内ランデヴーに取り入れると… 結果は云わずもがなである。
常に「グラグラ」だ。腰が坐ろうはずがない。必然、焦点はぼやける。
本質から遠離るのは、人に感情があるからなのだ。
般若心経の一節に、
と云うマントラがあるが、──まさしく、である。
平たく口語に直せば、
あらゆる本末転倒した妄想を遠ざけて、
──となる。そして、
と続くのだ。
涅槃を究竟する。
平たく、絶対的な心の安らぎの境地を極め尽くすことができる、と。
唸らずにはおれない。言い得て妙、である。遠離一切顛倒夢想できないが故に…
人間が「感情の動物」と呼ばれる所以である。
サイコロジカル・パラレル・ユニバースには何もない。常に、輪郭の曖昧な浮遊物体が虚空を彷徨っている。
先程も登場した「球体バブルス」共のことだ。
それらが、或る瞬間、一気に集結し、某かの像を象るだけなのだ。
契機はない。強烈な衝動が駆け巡るだけだ。集結する意味や原因は一切不明である。
それを「思い込み」と呼ぶ。
強烈な思い込みで捏造された妄想群の数々──。
それに依って自身を奮い立たせ、曖昧な輪郭を鮮明風に仕立て上げ、真の「現実」から目を逸らそうとする。
そう捉えると、誰もが、ナチュラルボーン・コメディアン。
とても愉快だ。僕とて例外に洩れない。
故に、おもしろ可笑しい。
現実逃避していない者は現実には生きていない。きっと綺麗な花々が臆面もなく咲き乱れていることだろう。
図々しくない、と宣う者が一番図々しい。
図々しくなければ、とうに果てている。
図々しいから現実世界に居坐れるのだ。
山が谷で、谷が山なのだ。
或いは──、
その起伏の描くラインが鼓動の高鳴り。
我々の心拍と連動しているのかも知れない。
何もなくても存在自体が美しい──。
愛とは始まりも終わりもない精神世界でのピリオド。足止めを喰うのは無理からぬこと。
都度、足を止め、本来、付け入る隙がない精神世界に幾ばくかの隙間を設け、そこにそれを住まわそうとする。
それが居心地よく過ごせるように、ない知恵を絞り、あれやこれやと奔走するのだ。
健気で愛おしい。
お互いに「何もない」と云う真理を持ち寄ることができたなら、聡明の極致に至ることができたなら──
何もなくても存在自体が美しい──。
僕は、そんな風に感じる。