余命宣告なしの計画

何故、明日も生きているという前提で計画を立てられるのか。

何が起こるか分からない、といった理もあるが、まるっきり盲目的な訳ではない。ある程度、年嵩も増せば、経験則上の予測なりが立ち、近い将来のことも見通せるようになる。

ただし、冒頭の前提においては、何処にその根拠を置いているのだろうか。穿って考えれば、自分本位で好都合な前提だ。

健康に自信がない者や、その他の思い当たる節がある者を除き、殆どが自身の死を前提にした悲観的な予測なりを立てないのでは、と感じている。

確約や保証が欲しい訳ではない。生とは自身の権利であり、尽きるまで全うすべし、ということを潜在的に刷り込まれているだけなのだから。

そもそもが自分本位な前提で成り立っている。

計画には「逆算」という考え方が当て嵌められることが多い。納期はいついつ。だから、この日までにはアレをああしてコレをこうして…この日までに○○が揃わなければ、最悪納期を落とす、等々。

「終わり」からこれからの行動を決めてゆく。

明日を死ぬ日と定めた場合、今日できることは何か、という自問が据えられる。

身の周りに居る人に優しくする、という答えが浮かんだ。

これは一期一会や真の刹那主義にも通ずる考え方だと思った。

今いっときを濃密に──それが真の刹那主義だ。

明日、死ぬのだから、今日、優しくしといて何も損はないだろう。こちらにはその後の進捗等を見定める術もなく、場当たり的な対応だったとしても何ら責務を負えない。咎めるべき矛先もない。悪転の取り越し苦労を背負わずに、こちらの正義を行使できる。

そして、好転した場合、生き残り共が頼みもしないのに勝手に惜しんでくれるかも知れない。あの人のお陰だ、と。

ものすごく自己満足度が高まる。


人間の価値とは、残念ながら当人にそれを知る術はない。それは死後、生き残り共が勝手に評価するものであって、生前、当人の都合に合わせて操作できる代物ではないからだ。

歴史的偉業を成し遂げた者は、教科書なりに掲載され後世に名を残す。

だが、およそ8、9割の人間はその他大勢であり、エキストラと同様、名もなき草花が人知れず散ってゆくように絶命する。

人間とは、自身と関わりを持った者の記憶力だけを頼りにその価値が判定され、然るべき評価がくだされる生き物なのだ。

ね、優しくしといて損ないでしょ?


──と、こんな自分本位な計画を練ってみたところ、口許が少し緩むのを感じた。

「懸命」とは、明日死ぬという前提の計画を余命宣告なしで立てることである。

そんな感じで♪

*2018.04.28・草稿

___ spelt by vincent.