善行であれ悪行であれ、一番恐ろしいことは「何故、それがそうで、そのような結果をもたらしているのか?」という仕組みが分からないことだ。
善行であればそれほど執着されないが、悪行の場合、非常に困ることとなる。
何故なら、どのようにすれば止まるのかが分からないからだ。
つまり、訳も分からず「動けば良し」という思想には、このような弊害が付きまとうのだ。
如何にして動かすか──。
そこに美徳を見出だせないような環境は、垂れ流しとなるのが関の山である。
願わくば美しく垂れ流したい。
2018.09.30・追記
悪行が発覚した際、改善せねばという流れになるが、この場合「何を善行とするか」という定義により、動きに変化が現れる。
悪行を駆逐する方法なのか、或いは、悪行を隠蔽する方法なのか。
動けば良し、という思想が強いと後者になりがちだ。なるほど、覆い隠せば悪行自体は見えなくなる。だが、それが善行なのかというと、途端に雲行きが怪しくなる。
僕は前者の方法を好む。悪行の成分分析などどうでも良いのだ。動いているからといってそれを止める術を知らないのならば、それだけで悪行だ。その動きに正義はない。たまたまそう動いているだけであって、その動きに意志・意図はない。
継承の意志すら感じないのだから、徹底的に拒否している姿勢だけが窺える。
隠蔽法は、後に必ず綻びが発覚する。根治していないのだから当然の結果だ。
悪行が発覚したとき、それを根こそぎ切除し、新たに善行を置かねば改善・改修とは云えないのでは?
──現状の仕事内容に禅問答を据えてみる。
いやぁ〜、仕事があることは良いことだ。