「必要なこと以外、喋らんで宜しい」
博士が煙たそうに吐き捨てた。
「そんな… わたしはただ… 博士が心配で…」
咎められた新任の助手が眉を潜める。
「心配?」
「ええ。昼夜問わず研究に没頭されてますし…」
「ウム。きみの心配がワシの研究をはかどらせるとでも?」
「いえ、それは……」
「何だね?」
「いえ、それでも食事はきちんとされませんと…」
「必要な栄養素は摂取しておる」
「いえ、錠剤だけでは不十分だと…」
「思考に必要なのはブドウ糖くらいじゃ」
「博士はロボットじゃないんですよ?」
「面白いことを云う」
「面白い?」
「ウム。ワシがロボットじゃったら、燃料補給に無駄な時間を費やさずに済む」
「博士…」
「食事を摂る時間すら惜しいのじゃ」
「無理は体に毒です」
「大抵の人間は毒素しか摂取しておらんよ」
「──?」
「農薬、添加物、合成着色料、保存料… 挙げたら切りがない」
「オーガニック野菜などもありますよ?」
「本物の無農薬野菜が市場に出回る筈なかろう?」
「何故?」
「キュウリなぞ、本来、ひん曲がっておるのじゃ」
「ええ。それは…」
「そんなキュウリはスーパーに並んでないじゃろ?」
「ええ。それは…」
「売り物にならないからじゃ」
「ええ。営利主義にはわたしも疑問を感じます…」
「ほう。一致する意見もあるんじゃな?」
「でなければ博士の助手は務まりません」
「きみは黙ってワシの云うことを利いておれば良いのじゃ」
「いえ。云うべきことは云わせて頂きます」
「故、必要なこと以外、喋らんで宜しい、と」
「博士に倒れられでもしたら、わたし…」
「…が、どうにかなるのかね?」
「いいえ。どうにもなりませんが…」
「ウム。では、何の問題もない」
「おかしくなりそう…」
「おかしくなりそう?」
「ええ。どうにかなってしまいそうです…」
「何じゃ? きみはワシを誘っておるのかね?」
「そんな… 昼間から何をおっしゃるんですか…」
「や、きみが女性で助かったよ」
「どうしてですか?」
「ワシは周囲の人間から何と思われようが構わんのだが…」
「ええ。博士は独自のバリアを張ってらっしゃるわ…」
「異性に対して色めき立っても誰も不審に感じない」
「どう云うことですか?」
「前の助手に色めき立ったら変に思われるじゃろう?」
「ええ。少し頼りない感じでしたけれど…」
「少しではない。圧倒的過半数じゃ」
「それでも一応、男性の方ですし…」
「ワシの反応は至ってノーマルじゃ」
「まぁ…」
「ワシはワシの情緒的な要素を含めてきみに伝えたまでじゃ」
「あら、今度は博士が誘ってらっしゃるのかしら…」
博士が眉間に皺を寄せる。
「きみは五月のハエかね?」
「五月のハエ?」
「ああ。そうじゃ」
「いいえ? 何故、そんなことを?」
「五月のハエと書いて『うるさい』と読むんじゃ」
「あら、ハエ呼ばわりだなんて非道い…」
「非道いのはきみのほうじゃ。お陰で研究時間を削られた」
「それは申し訳ないことをしましたが…」
「逆接は要らんのじゃ。ワシの云うことを利き給え」
「──」
「必要なこと以外、喋らんで宜しい」
「わたしは博士に食事を摂って頂きたいだけなのです…」
助手は俯いてしまった。
「ムゥ。埒が明かん…」
「博士も強情でいらっしゃる…」
「きみと押し問答している場合ではないんじゃ…」
「ええ。それは分かります…」
「本当に分かっておるのかね?」
「ええ。前の助手の方もとんだご不幸で…」
「不幸?」
「ええ。研究発表の寸前でお亡くなりに…」
「ウム」
「あの不幸さえなければ今頃は研究成果を発表できたかも…」
「まぁ、あれはあれで良いのじゃ」
「どうしてですか?」
「彼には最大の栄誉を与えた」
「でも、結果的に…」
「必要な犠牲だと割り切っておる」
「人ひとりが亡くなっているんですよ?」
「たかがそれだけのことじゃ。人間なぞ掃いて捨てるほどおる」
「そんな言い方…」
「それに彼は居ても何の助力にもならん」
「故人をそんな風に云うべきでは…」
「ワシの研究が完成すれば、すべて取り戻せるのじゃ」
「時空は曲げられると?」
「そのための研究をしておる」
「ええ。わたしも大変興味を持っております」
「興味?」
「ええ。とても興味深いことだと感じております」
「何じゃ。興味本位かね?」
「興味本位だなんて…」
「志のない好奇心なぞ邪魔なだけじゃ」
「人類のためにもとても有意義だと感じております」
「時空をねじ曲げることが──かね?」
「ええ。過去の過ちを正すことができます」
「そんな大それたことはワシには無関係じゃ」
「無関係?」
「ああ。そうじゃ。過去は過去。戻れぬし、消せない」
「それを可能にするのが博士の研究では…?」
「ワシはワシのために研究しておるだけじゃ」
「そんな… 大勢の方も援助されてますよ…?」
「彼らは余程の閑人か物好きなだけじゃろう」
「博士…」
「或いは、金の使い道を知らん愚か者」
「博士。それはちょっと…」
「彼らは資本主義に迎合しておる割には知恵が廻らん」
「わたしの叔父もその中におります…」
「そうか。それは気の毒に──」
「博士…」
「いずれにしてもワシには無関係な情報じゃ」
「──」
「ワシはワシのために研究を続ける」
「──」
「ただ、それだけじゃ」
「博士──」
「何じゃね? その眼は? また誘っておるのかね?」
「また、そんなご冗談を…」
「冗談なものか。そんな眼をされたら大抵の男はひとたまりもない…」
助手が口許に手を当てた。
「わたしは博士のそんなところが…」
博士は普段の博士らしからぬ表情を浮かべた。
「どうかされましたか?」
「いや、何でもない……」
「では、何故、そんなに狼狽えていらっしゃるのですか?」
「狼狽えてはおらん… ただ、些か…」
「些か…? 何でしょう?」
「ムゥ…」
博士は俯いて少年のように頬を赤らめた。助手が天使のような微笑を浮かべる。
「やはり、わたしが想像していた通りのお方ですわ」
「誰がじゃね?」
「博士が、です」
「ワシが、かね?」
「ええ」
「何を想像しておったんじゃ?」
「普段、悪態をついておられますが……」
「焦らしておるのかね?」
「本当は少年のように澄んだ心の持ち主──」
「これ。年寄りをからかうでない……」
「からかってなどいませんわ? 本心を申し上げているのです」
博士が口籠った。
「──今、何と?」
たどたどしく言葉を吐き出す。
「ワシにも春が来たのか、と……」
「まぁ…」
「何が『まぁ…』じゃ…」
「だって、博士ったら…」
「ワシはワシの情緒的な要素を季節に準えただけじゃ……」
「うふふ。可愛らしいお方……」
「やはり、からかっておるのか……」
「もう。博士ったら…」
「五月のハエめ。ワシに近づくな……」
「近くに寄らなければ助手は務まりませんわ」
「助手なぞ要らん。ワシはワシのことで手一杯じゃ」
「面倒は掛けませんわ」
「ムゥ。縋らない女じゃ……」
「わたしは博士に食事を摂って頂きたいだけですわ」
「ウム、そのようだな」
「ええ」
「そもそも疑問なのじゃが……」
「どうされました?」
「何故、きみはワシのところへ?」
「助手の件ですか?」
「ああ。聞いたところ立候補したとか…」
「ええ。自ら願い出ました」
「何故、こんな老いぼれの助手なぞを?」
「老いぼれだなんて… まだまだご壮健でいらっしゃるわ」
「ひねくれておるだけじゃ」
「年令に対しても反抗していると?」
「逆らってはおらん。重ねておるだけじゃ」
「うふふ。愉快なお方……」
「ウム。きみとの会話は何故か調子が狂う」
「狂う?」
「ウム。原因が掴めない…」
「本当は博士ご自身でも気付いておられますよ?」
「ムゥ。やはり、五月のハエじゃ。うるさくてかなわん……」
「博士の研究を邪魔するつもりはありませんわ」
「では、黙っていてくれ給え。気が散る」
「では、食事を摂ってくださいますか?」
「退かぬ女じゃな…」
「根気強いほうだと自覚しております」
「ウム。それはワシも認めよう」
「お褒め頂き光栄ですわ」
「ますます謎じゃ…」
「何がです?」
「きみがここに赴いた理由……」
「知りたいですか?」
「できれば胸のつかえを取りたい」
「わたしのお願いを聞いて下さるならお教え致しますわ」
「分かった。約束しよう」
「わたし、嘘つきは嫌いですよ?」
「きみに嫌われても別段困るものではないが…」
「では、お教え致しません」
「胸のつかえが取れないのはもっと困る…」
「では──?」
「ウム。云う通りにしよう。何故だね?」
助手がにっこりと微笑んだ。
「理由は、みっつあります」
「ほう」
「ひとつ目は、博士の研究自体に大変興味を持っている、と云うこと」
「ウム。それは先程聞いた」
「ふたつ目は、博士は、何故、この研究に取り組まれたのか」
「動機──かね?」
「流石、博士。見えてらっしゃる」
「余計なことは云わんで宜しい。続け給え」
「何か奥に深い闇が見えるのです」
「闇?」
「ええ。そうです」
「ウム…」
「きっと、博士の中の深い闇の中に動機が隠されているような──」
「きみは探偵かね?」
「先程、好奇心とおっしゃられたので、少し驚きました」
「ウム。図星だったからじゃな?」
「図星とまでは──」
「八割方は正解しておる。それを図星と呼ぶんじゃ」
「では、そう云うことで…」
「残りのひとつは?」
「前任の助手の方が亡くなられた経緯。事件の真相です」
「ほう──余程、好奇心旺盛と見える」
「お答え頂けるのですか?」
「答える約束はしておらん」
「ええ。それは…」
「知らないことのほうが多い」
「それではわたしの胸のつかえが…」
「取れない?」
「ええ、もやもやしてしまって…」
「すっきりせんじゃろ?」
「ええ…」
「では、こうしよう」
「はい。どうしましょう?」
「ウム──きみが事件の真相を知りたいのは分かった」
「お分かり頂けましたか」
「ああ。ワシはこれでも頭脳明晰じゃ」
「存じ上げております」
「ウム」
「それで、どうすれば?」
「ウム──きみは嘘つきは嫌いだと云ったね?」
「ええ。云いましたが?」
「では、きみ自身も嘘をつかない訳だね?」
「ええ。そのようにしてきたつもりです」
「ウム。自身の信条に真っ直ぐ──感心じゃ」
「それで、どうすれば? 博士との約束は守ります」
「ウム。それを聞いて安心した」
「わたしは何をすれば──?」
「再現して見せよう」
「──え?」
「きみは未練はないかね?」
「未練?」
「ウム。やり残したと感じる事柄など──ないかね?」
「出し抜けに問われると難しいですが…」
「何、簡単に考え給え。きみはきみの胸のつかえを取りたいんじゃろ?」
「ええ。それが唯一の心残りと云えば心残りですわ…」
「唯一… ねぇ」
博士は憐憫の眼差しを助手に向けた。
「その『唯一』のために、きみはきみ自身の信条を貫けなくなる」
「──?」
「ワシがきみとの約束を反故にできるからじゃ」
「おっしゃってることが……」
再び、憐憫の眼差し。怪しい眼光の中にうっすらと慈悲の光さえ感じられる。
「きみ、約束と云うものが、どう云うものか知っておるかね?」
「え? ええ。約束は約束ですわ」
「そう。その通りじゃ」
「それが何か?」
「約束と云うのは自分ひとりでは成立せんのじゃ」
「──」
「必ず『他者』を必要とする」
「──」
「自分は自分に甘いからな」
「──」
「約束は約束なんてことはお構いなしじゃ」
「確かに… そう云った部分は否めませんわ……」
「ただ、他者との場合は少し勝手が違う」
「何が違う、と?」
「ウム。そう云った約束をした者同士──今回の場合、ワシときみのことじゃが」
「ええ…」
「できない約束をした者同士…平たく、ワシときみ…が原因で約束が反古にされる」
「──」
「その可能性は否めない──理解できるかね?」
「ええ、何となく理解できます……」
「ウム。何となくでよい」
「──」
「もし仮に、相手が約束を破った場合、その約束をさせた相手にも要因がある、と云うことじゃ」
「──」
「要は『お互い様』と云うことを云っておるのじゃが…」
「──」
「きみは約束を守る、と云った」
「ええ、云いました……」
「それは誰のためかね?」
「誰の…?」
「そう。誰のためじゃ?」
「──」
「胸のつかえを取りたい自分のため──じゃないのかね?」
「ええ、そうおっしゃるのであれば…」
「何、ワシもそうじゃ。気に病むことはない」
「ええ…」
博士がひと呼吸置いた。
「──事件の真相を知りたいかね?」
「ええ。ますます、もやもやしてきました……」
博士の眼光がひと際異様な光を放った。
「では、自身の信条を貫くと云う自身の強欲のために約束を守り給え」
助手の表情が強張った。
「博士…? 一体、何を……?」
「きみに栄誉を与えよう」
博士は前任の助手に手渡したカプセルをひとつ取り出した。
「博士…? わたしは……」
「必要なこと以外、喋らんで宜しい──」