「君の眼の前には透明なガラスの瓶がある」
「先生。何もありませんが……?」
昼下がりの柔らかい陽射しが差し込む部屋の一室。向かい合わせのソファにふたりは坐っていた。
「もしも、の話だよ。『if』の話」
「はい。そう云うことなら……」
「君は譲らないから眼の前のことしか信じようとしない」
「はい。頑固だと他人から云われます…」
「ふふ。だろうね」
「はい…」
「でも、それは悪いことじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「うん。自分自身に真っ直ぐ、と云うことだからね」
「嘘をつかない、と?」
「ああ。そうだね」
「真面目なんですね」
「ふふ。正確には『つけない』と云えるだろうね」
「つけない?」
「そう。自分自身の嘘はすぐに見抜ける」
「確かに」
「バレたら嘘ではなくなる」
「何か別のものに変わるんですか?」
「大袈裟に云うと『裏切り』に変化するね」
「裏切り…」
「『謀反』と捉える向きもある」
「謀反ですか? 何だか仰々しいですね…」
「まぁね」
「わたしはシンプルなのが好きです」
「そうか。良いことだね」
「はい」
「嘘つきは泥棒の始まり、なんて云われるけれど」
「はい」
「それならば、まだ救いがある」
「救い…」
「ああ。もし仮に泥棒をしてしまっても…」
「──泥棒するのはいけないことです」
「そう?」
「はい。わたしはしません」
「じゃ、君は既に犯罪者だ」
「え? どうして?」
「今、僕の気持ちを盗んだ」
「先生ったら何を……」
「ふふ。君は嘘つきじゃないんだろ?」
「はい」
「じゃ、本当に盗んでしまった訳だね?」
「あの… 仮定の話じゃないんですか…?」
「僕の話は仮定だけれども、君がしたことは実行犯だ」
「そんな…」
「確信犯かな?」
「先生…」
「それとも、ほんの出来心?」
「何だか頭の中がグルグルして来ました…」
「そう。動揺しているんだね?」
「先生… もう赦して下さい…」
「大丈夫。君の犯行動機が出来心からだろうが、嘘からだろうが…」
「両方共違いますが…」
「──罪を認めて、その罪を償えば赦してもらえる」
「先生ってば……」
「ん? 何だい?」
「先生は面白いことを云いますね」
「面白い?」
「はい。何だかすごく癒されます」
「そう。僕は当たり前のことを云っているだけなんだけれど」
「とても心地好いです」
「そう、それは良かった」
「はい」
「泥棒の話はひとまず置いて──」
「はい」
「ガラス瓶の話」
「はい」
「君の眼の前には透明なガラスの瓶がある」
「はい。あります」
「中には何が?」
「中に? んー… 中身は……」
「眼を閉じてご覧」
「閉じたら見えません…」
「見ようとするからだよ」
「だって努力しないと見られませんよ?」
「努力で見えるものは『学習』だよ」
「学習?」
「そう。『訓練』でもあるかな?」
「訓練?」
「或る程度、訓練すれば誰でも見られるようになる」
「はい…」
「今、僕が訊いているのは」
「はい」
「君の眼の前にあるガラス瓶の中身は? ってこと」
「はい…」
「僕には見えない。君にしか見えてない筈なんだ」
「そうなんですか?」
「そう。だから、訊いているんだよ」
「そう云うことですね」
「何が見える?」
「ちょっと待って下さいね……」
彼女は、すっと眼を閉じた。無防備な長い睫毛を先生の視線が縁取る。
「何か…もやもやしたもの……」
「もやもや?」
「はい… 黒っぽくて… 毛糸のような… 何かの繊維…?」
「絡まってる?」
「はい… 複雑に… 滅茶苦茶に絡み合っています…」
「そう──うん。もう、眼を開けていいよ」
彼女は何度か眼を瞬かせ、夢から覚めたような顔をした。先生の口許には微笑が浮かぶ。
「今、君に見えたもの──」
「はい。あれは何ですか?」
「君の心の中」
「──!? あれが?」
「そうだよ」
「何が何だか… こんがらがっていて…」
「禍福は糾える縄の如し」
「え? 先生。今、何て?」
「や、こっちの話だよ」
「そうですか」
「複雑に絡み合っていて当然さ」
「でも、どうしてあんなものが?」
「厄介ごとを抱えているからさ」
「厄介ごと…」
「そう。君は感受性が鋭いから全部拾ってしまうんだ」
「わたし、拾っているつもりは…」
「ね? 努力は不要でしょ?」
「え?」
「努力していないのに、君は拾ってしまう」
「ああ… そう云われれば…」
「見える、聞こえる、分かる、感じる」
「はい」
「すべて努力不要なんだよ」
「何だか…」
「何?」
「努力って虚しいですね?」
「そうだよ。努力は虚しい」
「──」
「報われると信じている自分自身にも裏切られることがある」
「──」
「他人に裏切られるのとは比較にならないよ」
「──」
「相当なダメージだ」
「──」
「ならば、そもそも疑わない」
「疑わない…?」
「そう。疑惑を向けるから、そう云った事態に陥るのさ」
「──」
「念じていると、その念は具現化してしまうんだ」
「──」
「有るものしか顕われない」
「──」
彼女の顔色が曇った。
「…でも、先生……」
「何だい?」
「わたし… あんな黒くて絡まったものは…」
「ふふ。気持ち悪い?」
「はい…」
「あんなものを好む人は多分居ないと思うよ」
「先生… わたし、どうすれば…?」
先生が彼女をじっと見つめた。そして、祈るようにそっと呟いた。
「真っ白にするのさ」
「真っ白?」
「そう。ぎっしり書き込まれたページには、もう何も書けない」
「はい」
「真っ黒で──消すこともできない」
「はい」
「次のページをめくるのさ」
「次のページ…」
「真っ白──だろ?」
「そうですね。真っ白ですね」
「消す努力は不要なんだよ」
「努力不要…」
「ガラス瓶の次にページはない」
「はい… 真っ白になりません…」
「蓋を開けてご覧」
「蓋…」
「蓋を開けて中身を取り出すんだ、全部」
「──」
「そうすれば空になる」
「──」
「固くて開けられない?」
「はい… とても固いです…」
「鍵付きなのかな?」
「鍵は… 鍵も掛かってます…」
「その鍵は誰が?」
「さぁ…」
「僕が持ってるよ」
「え? 先生が…?」
「ああ。君に逢うずっと前から」
「前から…? 一体、何処に…?」
「僕の眼の前にある透明なガラスの瓶の中さ」
「先生の…」
「見えるかい?」
「今はちょっと…」
「そう。それは残念」
「はい…」
「僕の瓶に蓋はない」
「そうなんですか?」
「ああ。いつでも、24時間オープンしてる」
「先生……」
「手を伸ばせば、すぐに手に入る」
「先生……」
「さぁ、手を伸ばしてご覧」
「先生… わたし……」
「ん? ガラスの瓶が見えるのかい?」
「はい。見えます。見えてきました…」
「そう。感じているんだね?」
「はい。中に鍵も──」
「でしょ? 僕は嘘が嫌いなんだ」
「はい。わたしもそう思います」
「嘘つきは悲哀の元凶──虚しいだけさ」
彼女は先生のガラス瓶の中から鍵を取り出すと、自分のガラス瓶の蓋に付いている鍵穴に差し込んだ。そして、ゆっくり捻ると、カチリと音がした。
「先生! 開きました!」
「そう──バッチリだね」
先生は夢見るように微笑を浮かべている。
「早速、中身を取り出して空っぽにするといい」
「はい!」
「終わったら云ってね」
「こんなこと、すぐに済みます」
先生は嬉々とした表情を浮かべる彼女に慈しむような眼差しを投げていた。
「先生! 空っぽになりました」
「そう。良かったね」
「はい。ありがとうございます」
「ふふ」
彼女の瞳はキラキラと輝いていた。
「でも、何もないのも不安でしょう?」
「えっと… スッキリはしたけれど…」
「不安は少ないほうがいい」
「はい。そうですね…」
先生は彼女の眼の前で両手を拡げた。そして、彼女の頬を柔らかく包んだ。
「先生… 一体、何を…?」
「大丈夫。怖がらないで──」
先生はそう云うと、眼を閉じた。彼女は訝しげに先生の顔を見つめている。暫くすると、彼女の頬が紅潮し始めた。
「先生…? わたし… 何だか……」
「じっとしていて──もう少しだから」
彼女は先生の云われるが侭にじっとしていた。先生の掌から伝わる何かを感じていたからだ。やがて、先生が大きくひと息吐いた。
「何か変化は?」
「はい。あります…」
「どんな?」
「何だか胸の奥がきゅんと…」
「そう。良かった」
「あったかいです、とても…」
「ふふ」
「先生は何をしたんですか?」
「送ったんだ」
「何を?」
「ヒーリング・ジェル」
「ヒーリング・ジェル…?」
「ああ。そうだよ」
「何ですか? それは…」
「液体でもない固体でもない気体でもない」
「そんなものがあるんですか?」
「あるよ。なければ僕が送れる筈ない」
「はい…」
「普段は液状であることが多いかな?」
「その… ヒーリング・ジェルがですか?」
「うん、そうだね」
「変化するんですか?」
「状況に応じて臨機応変に」
「器用ですね」
「ヒーリング・ジュエルでも良いかも知れない」
「え? 名前がですか?」
「うん。名前なんて、どうでもいいのさ」
「……」
「そこにある、と感じられれば──」
「先生…」
ふたりの空間に心地好い風が流れた。彼女は夢見るようにうっとりしている。
「先生…」
「ん? 何だい?」
「以前から、ずっと不思議に感じていたんですけれど…」
「ああ。疑問符は片付けるべきだ」
「先生は一体、何者なんですか?」
彼女の瞳が真っ直ぐに先生を捉える。先生は悪戯っぽく少年のような笑顔を浮かべた。
「癒しのライセンスを持つ男──」