受話器を耳に押し当てると、言葉にならない慟哭が響いてきた。嗚咽混じりの悲痛な叫び。金属質な金切り声。
きっと、どんなに優秀な翻訳家でも仕事にならないだろう。
それでも、しゃくり上げながら懸命に弁解を試みる。何段飛ばしの飛び石投げっぱ。センテンスの尻切れトンボ。
彼は為す術なく、受話器を握りしめたまま茫然と立ち尽くすだけだった。
「…なさい……」
「──」
「……ごめんなさい…」
ようやく聞き取れるフレーズが流れた。
「分かればいいんだよ」
彼は囁くように呟いた。
「そうじゃない… そうじゃないの……」
「何が?」
「そんなつもりじゃなかったの……」
「……そうか」
きっと、何かが滲みたに違いない。捉えられなくても感受性が傍受したものを呑む。否、捉えられなくとも感じるのだ。
理解不能より理解不要。成る程、やはり聡明だ。
「もう、泣かないで。涙が安っぽくなる」
「でも……」
「いいんだ。僕もキツく云い過ぎた…」
「でも、思ってないことはゆわないんでしょ?」
「ああ。そうだね。思ってないことはクチに出ない」
「じゃあ……」
「じゃあ──何?」
しばしブレス。聴覚だけが頼りだが、そこからも阻害される。
沈黙は苦手だ。義務感から発せられるものではなく、暗黙の了解を呑め、と云う稚拙な傲慢が鼻に付くからだ。
説明不要の対極には恐ろしい武器が隠されている。
「それで泣いたんじゃないのか?」
「……え?」
「思い当たる節があると、人は罪悪感を感じるんだ」
「……」
「だから泣くなと云ったんだよ」
「……」
「安っぽいだろ?」
再びブレス。彼は構わず続ける。
「指摘や攻撃なんて生易しいものじゃないんだ」
「……」
「ハードボイルドに情緒はないんだよ」
「……」
「あるのは動かざる現実だけ」
「……」
「逃れられない現実が一番堪えるのさ」
「……」
「だから心が切れて涙が溢れる」
「……」
「涙は心の血液なんだ。無駄遣いしちゃいけない」
「……」
ひと呼吸置いた。
「落ち着いたかい?」
「何とか……」
「そうか」
受話器の向こう側に居る彼女の輪郭を撫でるように、彼の眼差しは虚空を彷徨っていた。
「どうして電話を?」
「どうしてって……」
「赦し──を請うため?」
「それは……」
彼の口許に笑みがこぼれる。
「大丈夫」
「え? 何が……?」
「もう大丈夫だ」
「……」
「電話の声を聴いた瞬間に氷解した」
「あなた……」
彼が口髭を撫でた。
「赦す赦さないで云えば赦す」
「……」
「僕はそんな所で君を括っていない」
「……」
「君はそんな壇上には居ないんだ」
「わたしは何処に居るの?」
「何処?」
「ええ。わたしはあなたの何処に居るの?」
「特別だ」
「特別?」
「そう。低い次元に置いてない」
「それはあなたの買い被りだわ……」
「買い被り?」
「そうよ。わたしは、そんな……」
「いいんだ、それで──」
「何故?」
「僕がそう決めたんだ」
「あなたって……」
「自分勝手な人?」
「ええ。自分勝手な人」
「ああ。自覚してるさ」
「自分勝手で優しい人」
「フッ。おだてても何も出ないよ?」
「どうしてわたしは特別なの?」
「厭かい?」
「厭じゃないけど… 理由が知りたいわ」
「理由──ねぇ」
彼は天使のように微笑んだ。
「僕の独断と偏見だ」
「え?」
「それと贔屓目も入ってる」
「あなたって…」
「なんて馬鹿な人?」
「ええ。ホントに馬鹿な人」
「その馬鹿な人を好きなのは誰なんだい?」
「それは…」
受話器から微かに笑みが洩れて来る。
「いいんだよ、それで」
「ええ。やっと分かったわ」
「何が?」
彼女は深く息を吸い込み、祈るように囁いた。
「あなたはわたしの大事な人」
彼の口許に微笑が浮かぶ。
「さっきの涙は何処へ?」
「知らない。何処かへ飛んでったわ」
「フフ。軽いんだね」
「そうね。安っぽいわ」
沈黙──。
否、心地好い静寂。
彼はこの静寂を好む。
同じ無音の世界でも種類がある。
五感の機能を度外視して通じ合う何か。説明不要の対極には未曾有の愉悦が眠っている。
「矛盾」とは、こう云うこと。
切っても切れない。
決して分つことはできない。
これを「魂の連鎖」と呼ぶ──。
願わくば、心地好い拘束に身を委ね、
逃れられない束縛に溺れ給え。
我が魂の命ずるままに──。
コメント (1)
「矛盾がたまらなく滲みるのさ──」 「わたし、そんなこと──何もしてないわ」
「傷口に塩塗り込まないでくれよ」
「あなた、ひょっとしてMなの?」
「や、Mじゃないけど──やめてくれ」
「でも、もっとして欲しそうよ?」
「分かる?」
「ええ。バレバレよ?」
へぇ〜あっそぉ(´∀`*)y-〜♪
おもろければ何でもえーねんw