絶対服従の命令を呑ませる話術 - 形勢逆転の秘術
自問自答の行く末を上記の戯曲の解説を踏まえ考察してみる。
このAとBの会話のやり取りは実に巧妙だ。
何も考えず、流れを追っているだけでも十分に楽しめる。
大枠のストーリーとしては、Aから切り出した科白が最終的にはBに掠め取られ、一本取られている恰好で幕を閉じている。
華麗なる形勢逆転劇──。
Aの不様さを「策士策に溺れる」と表現することもできるだろう。
AとB共に知能の高さが窺えるが、最終的にAは自身の掲げたテーゼに呑み込まれ、僅差でBに軍配が上がったと云う流れだ。
「形勢逆転の要素」は、この「僅差」の中に潜んでいる。と同時に「巧妙の愉悦」が盛り込まれていたりもするのだ。
コメント欄に「揚げ足取りの美学」とも表現されているが、一般的に揚げ足を取る者は知能が高い場合が多い。
そうでなければ、揚げ足を取ることができないからだ。
揚げ足取りが煙たがられるのは、何てことはない、実は「自分の思い通りに事が運ばない相手が憎い」だけなのだ。要するに「馬鹿の遠吠え」なのである。「揚げ足を取られる自身の愚かさを呪え」と云いたい。
さておき、、
形勢逆転へのフローを追って解説してみる。
まず、最初に、Aのテーゼの切り出しで、この戯曲はスタートする。
これを受けたBは、そのテーゼを「命令」と云う「定義」に嵌め、そのテーゼの意義根底を理解した上で、それを呑む。
そして、呑む際に「うまい命令だ」と相手に「追従」を述べている。
──この「追従」が実に計算高い。
一般的定義で云う「追従」は「媚び、へつらうこと」であり、余り好印象な要素ではないとされている。
まず、そこを逆手に取っているのだ。
「君の云いたいことは分かった。で、だから何なのだ?」と、最初から形勢逆転のための「布石」を置いているのである。
勘の鋭いAはそれをいち早く察知し「おだてているのか?」と問う。
Bはそれを否定し「解析を述べたまでだ」と、飽くまで、Bのテーゼを述べるに留めている。
まだ、出方を窺っているのである。
ここにBの「不屈の闘志」が眠っているのだ。
「君のテーゼは理解した。だが、それには屈しない」と。
だが、それを悟られまいと、「君のテーゼに反する」と云う「追従の念押し」まで敢行している。
──実に巧妙だ。
Bのその思惑を汲めないAは「そう云うこと」と、自らのテーゼの優勢に満足し、それを噛み締めている。策士が溺れる一歩手前──「油断」が生じている瞬間だ。
──「好機到来」である。
そこに、Bの「沈黙」が返しの一撃で刺さる。
Aからすれば「疑念」が浮上する。「何故、黙る?」と。
これを聞きつけたBは内心でほくそ笑み、ここから怒濤の逆転劇を展開してゆく。
ここから先はBの独壇場である。
Aは自身のテーゼの脆さを修繕する間もなく、一言一句、Bに叩き潰されている。
その哀れさには「自業自得」「自縄自縛」などと云う言葉も浮かぶ。
Bの勝因は、「Aの話をよく聞いた」と云う、その一点に尽きるだろう。Bは、Aのテーゼを十二分に理解、解釈、熟知している。
そして、否定的に捉えられる科白も見受けられるが、根底では何一つ「否定」していない。すべて「肯定」しているのである。
そこにBの「愛」も感じられる。
「君のテーゼは正しい。だが、脆い」と。
故に「私がより強固なテーゼに補完してやろう」と。
「人類補完計画」である。(´∀`*)
これを「愛」と呼ばずして、何を「愛」と呼ぶのだろうか。
「存在の肯定」──。
僕が説く「愛」とは、ここにある。
この形勢逆転劇が痛快なのは、そこに血
そこに学ぶべき要素がふんだんに盛り込まれていると感じる。
そして、この戯曲に登場するのはAとBと云うふたりだけだが──実は「ひとり」だ。
そう。これは僕の「脳内会議」の一幕なのだ。
「自問自答」と云う作業は、気が遠くなるほど手間が掛かる。そして、それには「終わり」はない。決して終わらないのだ。
故に、人は死ぬ。
終わりのない作業を延々と繰り返しても──
──「不毛」だからだ。
神様は誰の云うことも利いてはくれないが「慈愛」に満ちている。
愚かな喜劇王らに「安寧」を最後に与えてくれるのだ。「最高のプレゼント」だ。
ありがとう。
僕は心豊かに死ねる。
我が魂の命ずるままに──。