現実とは視認性が高く、ある程度、説明のつく世界観で構築されたもの。
非現実とは視認性はおろか、認識すら困難な世界観で構築されたもの。
との、大括りで仮定するならば、
空想や妄想、論理や思想などは、すべて「非現実の世界観」である。
──と云える。
更に思考を深める。
非現実の世界観を(何とか)認識することができる我々には、現実の世界観では実存し得ない「神」の存在(概念)すらも認識し、理解・解釈に努め、また、「当然」として振る舞おうとする、と云う厄介で滑稽な能力が備わっていたりする。
平たく「思考回路」である。
そして、苦しいときに「神頼み」をする我々は好都合で虫のいい自己中心的な生き物の代表格である。
だが、現存しないものにすら疑いを掛けないのだから、最も重視される「現実の世界観」と云うものは、本来、まさしく「空虚」なのである。
断定──蜃気楼。
だとすると「真実」とは、一体、何処にあるのだろうか?
それは「非現実の世界観にある」と云えるだろう。限りなく空想・妄想の類いと近似値である、と云うことだ。
そこで「幸福」と云う概念が浮上する。
「幸福の定義」については多種多様であり、一様には括れない。それは「十人十色」が示す通り、一色ではなく何色もあるものなのだろう。
幸福の色鉛筆
どんな塗り絵ができるかな?
そんな文具用品にちなんだコピーが頭に浮かぶ。一体、幾らで手に入るのだろうか。
<!-- 脳内<blockquote> -->
そもそも売っているものだとしたら、誰が何処から仕入れているのだろうか…
否、そもそも誰が製造しているのだろうか…
メーカーなりがなければ卸す先もない。
見聞に及んだ覚えがない様子から察するに、ひょっとしたら、既に工場自体が操業停止…?
これほど需要と供給のバランスが崩れているのに、何故、人は……?
<!-- /脳内</blockquote> -->
資本主義・民主主義ベース脳内導入却下。
閑話休題。
その「幸福」とやらは定義付けるに決定的なクリティカルヒットを持たない。
だが、それぞれの個々銘々が渇望するほどの魅力に溢れている。
あらゆる概念を網羅・包括するほど強大で凄まじい威力を持ったもの。
──それほど驚異的な概念のひとつだろう、と云うことは想像に難くない。
「幸福」とは?
非現実の世界観で君臨している。
恐らく正論だろう。それは何故か?
超逆説的に…
そんなものは何処にも現存しないからだ。
「幸福って持ってる?」
「うん。持ってるよ」
「マジだぁ。じゃ、見せてー」
「ええっとねぇ……」
そんなシニカルな脳内寸劇が展開され、挙句、
「なくても持ってるのー バーカ」
と云う子供騙しにもならない屁理屈が捻り出される。
所謂「高尚な気休め・開き直り」である。
人は決して幸福にはなれない。
幸福とは現存せず、例えば職業などでもないから「なれる」はずがないのだ。
やはり「感じる」もの──。
よって、現実世界観の中で見出そうとしても決して探し出すことはできない。その現実から目を逸らし、幸福を探し出そうと試みれば、
404 Error Not Found
このエラーの格好の餌食である。
現実世界観と云うものは無味乾燥でシビアで情け容赦ない。草木の類いはおろか、何ひとつ生い茂ることはない。
それらがそう見えているのは、すべて「錯覚」なのだ。
幸福は真実の世界観の中で悠然と君臨している。故に、現実世界観で齷齪と蠢いている我々はそれを「渇望」するのだ。
平たく「幸福」とは、
現実と真実のギャップを埋めること
である。
故に、生が断絶するまで人はアクションを続ける。一度こっきりの1本撮り。撮り直しは不可能である。
慎重な人も、大胆な人も、根底では何ひとつ格差を持たない。
シーン1 テイク1 ノーリテイク!
アクション! スタート!
来世に未練を託そうとする我々は
生まれた瞬間刹那から喜劇王である。