「心身」と云う括りがあるが、一般的には「バランス」と云う言葉で補われたりする。
この言葉は殊更に心身だけに留まらず、あらゆることに用いられたりする汎用的な「逃げ口上」だと感じる。
僕は「傾ぐシーソーで楽しむ」と云う苦し紛れな気休めで、都度、降り掛かる不都合の類いを楽しもうとする。
シーソーと云うのはバランスが良いと都合が悪い。云わずもがな、シーソー遊戯としての機能を果たせないからだ。
アップダウンの激しいシーソーに振り落とされる可能性があるのは否めない。
ただ、シーソーですら楽しめないのならば、他の遊戯で楽しむことは難しいだろう。
冷静沈着な乱気流──。
地の底まで這いつくばった自身を「愛でる」──乱れていても「自身は自身」。
ただ、掻き乱れた自身を客観視できているようならば、まだまだ本当の「末期症状」ではない。
「苦悩すら楽しめ」と云う「試練」──朧げながら「苦悩」にも「格差」は存在する。
序の口──だ。
ただ、そんな中でも…傍から見れば十分、錯乱していても…冷静に自己解析できてしまう自身を呪う感覚。
──その感受性のシンパシーは否めない。
特に、自己評価の厳しい人は壊れ易い。他己評価に対して「右から右」が多いからだ。
壊れたら修復を。壊れたままで構わないのであれば、そのままに。
修復に「他人」が必要ならば、心置きなく「利用」し給え。
自分以外の人間は、すべて「他人」だ。
どんな「脇役」にも必要なシチュエーションがある。
そして、own myself と云う独善的で独創的な一大スペクタルを独自のメソッドを以てトライ&エラーしつつ、ビルドしてゆくのだ。
コンプリート目指して──。
ただ今暫くは、その身を案じています。
例えば、堪らず溢れた言霊が僕を罵倒するものだとしても、僕は君の言霊を聴き遂げます。
僕は、僕の自分勝手な我が儘に一生付き合うだけです。
傾ぐバランスに揺れる君よ。
悟りよ。幸いあれ。
我が魂の命ずるままに──。