「どうせ死ぬ」と云う持論。
これをハイパーネガティブな思考と呼んだが、どうやら「究極の必然」だと云うことに気付いたようだ。
そして、自身が心から欲しているもの、囚われて止まないもの、それは「心中」だと云う深理に至ったような気がする。
好意や恋愛などの陳腐な括りを超越したもの。気高く孤高な思考の頂点。
それが「心中」だ。
どうせ死ぬのだから人生に意味など元々ない。無に向かって歩き続ける愚かさを愚行と認識していないからこそ、人は死ぬまで生きることに疑問を持たないだけだ。
そこに「前向き」も「後ろ向き」もない。1本の道を正確に、確実に、歩いているだけだ。一歩一歩踏み締めて──。
入り組んだ複雑怪奇な道を歩いていると思い込み、それに固執・呪縛されているのは大いなる勘違いに過ぎない。
そんなことがふと脳裏を掠め、不思議と安らいだ気分になった。揺らめく蝋燭の炎さえ目に痛く、優しく感じられた。
同時に、待ち侘び、恋い焦がれている時刻が永遠に続くのではないか、と云う錯覚を掻き立て、自虐的な構成要素をエキセントリックに刺激する。
俺に想われてしまった魂は正直ウザイだろうな、と思う。
思う。想う。憶う。念う──。
濃度・純度の高い、凝縮されたコアが、一枚一枚、丹念に塗り重ねられてゆく。
共に生きることを望まれるのではない。共に死ぬことを望まれるのだ。
高じたら「強要」と取れなくもない。「無理強いは不本意」としているにも関わらず…
それを向けられるからこそ追い詰められ、ギリギリの切迫感の中、息苦しさを覚え、受け止め切れない重圧感に苦しみ藻掻きながら、やがて絶命してしまうのかも知れない。
それを自分自身が厭わないからこそ「タチが悪い」と評されるのだろう。
同時に、そこまで念われることへの罪悪感と背徳感とが道義的な倫理観を覆してしまうのかも知れない。
命を失い、搾り滓となった欠片たちが、ふわふわと虚空を浮遊している。今まで歩いてきた道中で、それらに多く遭遇した。
陳腐で軽薄な欠片たち──。
その欠片に一喜一憂し、右往左往と翻弄された自身。それらが見えるからこそ自身を類い稀なる愚者だと認識できる。
救われる筈のない自虐だが、感謝の念が絶えない。それらの欠片に翻弄されたのは紛れもなく自身だからだ。欠片に責任を問うのは愚の骨頂。
冷静沈着な乱気流──。
心に「心中」を据えると、一切のわだかまりが掻き消されてゆくようだ。
だが、完全に掻き消されることはない。顕在・潜在を問わず、意識の侭なるうちは否が応でも思考のチェーンループは繰り返される。
故に、
我が魂の命ずるままに──。
コメント
2006年05月01日21:04 vincent.
俺を取り巻く大いなる負の要素よ。
まとめてでも、小出しででもどっちゃでも構わん。
掛かって来いや!
負ける気もしねーし、勝つ気もねーよw
そんな感じで♪
2006年05月01日21:09 vincent.
1:9の確率変動を引き当てたんや。
炎の強運ギャンブラーに違いないww
ギャンブルは身を滅ぼすと云うが、だから何?
まぁま、痛いのはこの辺で。。苦笑
2006年05月02日14:22 vincent.
「陳腐で軽薄な欠片たち」=「嘘」
巷で蔓延している負の要素だが、自分自身に向けられたものだけ捉えるべきだろう。
嘘について一軒一軒軒並み廻っていたら、それこそキリがない。
綺麗事だけで渡ってゆけると勘違いしているほど優雅な温室育ちではない。
自分にとって都合が宜しくないことなどは誰に諭されることなく列挙できるし、幾度となく乗り越え、都度、通行手形に刻んできた。
その欠片たちを満身で受け止め、受け入れ、自分の骨とし、肉とし、血としてから初めて、「拒絶」と云う判断基準の一方が浮上するのでは?
などと考える。