「地獄に落ちろって云うじゃない?」
「うん」
「地獄って下にあるのかな?」
「んー、ま、地の底にあるイメージだよね」
「誰が決めたんだろ」
「そう云われればそうだけど…」
「僕はちょっと違うと思うんだよね」
「へぇ、どんな風に?」
信と疑
信・不信・無信
疑・不疑・無疑
これら定義の似て非なる差異が分からぬが故に、人は誤解を育み、決して分かり合えない。
願わくば達観せよ。
信じるのは各々の自由であって、それが正義であるとは限らない。
信じていることが動機だったとしても、それを他人が理解していると過信してはならない。
或いは、正義がすべて陽の要素であるという根拠もない。
破壊を望む者の正義は、客観的には受け入れられないものとして、最大の陰の要素であると推測されるからだ。
「信じる」とは、飽くまでも主観的な能動であって、本当に信じているならば「裏切られた」等という、受動的な被害意識を持つことはない。
もし、そう感じたとするならば、それは信じている自身の心が折れただけであり、客観的な事象なりには何の責任もない。
信疑の真偽は常に主観的いち情緒に過ぎない。
それが客観的決定的な正義となる根拠は極めて薄い。
通念上の正義は時代の風潮でいかようにも変容する。
例えば、喫煙の概念等がそうだろう。非常に分かりやすい。
…等と、換気扇の下で紫煙を燻らせながら、
我思う故に我あり
*2019.01.13 facebook投稿より転載
能動的に愛するという奇跡
他人というのは驚くほど自分のことを考えてくれない生き物だ。
踏まえて、他人に愛されるということが、どれほど奇跡であるのか、ということを思い知らされる。
これは被害妄想的な意味合いではなく、お互いにそうなのだから致し方ない。斟酌や忖度が空想上の幻獣らと何ら変わらないことを知り至る。
同時に、独善的に他人を思い遣るということが、どれほど恣意に基づいているのか、ということも知り得る。以前、差別の元凶として説いたが、恐らく大外しはしていない。
差別、特別、区別、分別、等々。
幾らボキャブラリーを変えたところで「別」という言葉が入る以上、同じではないということを事更に主張しているだけだ。
差別扱いは良くないが特別扱いは良い。
この思想そのものが差別がなくならないことを示唆している。
或いは、特別扱いという差別扱いに気付かない、気付いていない、という自分本位を如実にしているだけかも知れない。
余命宣告なしの計画
何故、明日も生きているという前提で計画を立てられるのか。
何が起こるか分からない、といった理もあるが、まるっきり盲目的な訳ではない。ある程度、年嵩も増せば、経験則上の予測なりが立ち、近い将来のことも見通せるようになる。
ただし、冒頭の前提においては、何処にその根拠を置いているのだろうか。穿って考えれば、自分本位で好都合な前提だ。
健康に自信がない者や、その他の思い当たる節がある者を除き、殆どが自身の死を前提にした悲観的な予測なりを立てないのでは、と感じている。
確約や保証が欲しい訳ではない。生とは自身の権利であり、尽きるまで全うすべし、ということを潜在的に刷り込まれているだけなのだから。
そもそもが自分本位な前提で成り立っている。
猛暑にて紫煙を燻らす
空前絶後の猛暑の中、ふと脳裡をよぎる。
自身の女性遍歴を辿ると、今までには居なかったパターンだな、と。相手のことを自分事として捉えていない訳ではないが、飽くまでも他人ということをしっかりと認識できている。それが子まで設けた経緯なのかな、と自分なりに解釈している。
僕は僕で常に新鮮味を感じているのだが、彼女にはそれがないそうだ。済みませんね、と。
これだけ人生を共有しているのだから、他人行儀な間柄ではないつもりだが、新鮮味とは別次元に居るものだ、と。僕はそう捉えている。
客観
客観とは主観の複数形である。