切り立った崖と崖とを結ぶ1本のロープ。
渡り切った向こう側に何かある訳ではない。
「目的」「理由」は何もない。
「期待」「希望」も何もない。
ただ、そのロープを渡らねば、と云う厳然たる回避不能な現実があるだけ。
一番愛しい存在を抱えて、それを渡る。
突風に煽られ足元がぐらつく。
諸共、転落する可能性もある。
抱えている者を投げ出すことで助かるならば、自分だけ助かりたい、と云う「未練・執着・保身」もなく、
わたしを投げ出してあなたが助かるならば、わたしを投げ出して、と云う「直訴・懇願・挺身」もなく、
「落ちてしまうなら儘よ」と、お互いに何の「疑問」も「躊躇」も抱かないような…
否、誰に命じられることなく、能動的に、自らの意志で抱けないような、抱かせないような… そんな感覚──。
ギリギリの安心感──。
そんな感覚に見舞われる。
落ちてしまう可能性を十分知りつつも、落ちてしまうのも、また、この愛しい存在とならば、そして、どこか「落ちる筈はない」と云う「確信」を抱き…
大いなる矛盾を抱きつつ、その矛盾に気付きつつ、理解を飛び越え、感じる、心地好い絶望的な感覚……
ギリギリの安心感──。
ロマンティストは救われない。
救われないから抗わない。
否、救われないなら抗わない。
「潔」を以って、この安心感を受け入れ、全うする。
生の潰えるその瞬間まで──。
剪定される蔦
煙草を買いに外に出た。
トントンと階段を降りると、数人の庭師らが家の壁面を這うように茂った蔦に剪定鋏を入れていた。横目でちらりと見てから自販機へ向かう。
戻って来ると、入口附近でラフな格好の大家さんとスーツを着た男が図面を拡げて立ち話をしていた。
「こんにちは。あ… おはようございます」
大家さんが挨拶して来たので、おはようございます、と応えた。
「今日は剪定してるんですよ」
ああ、そうなんですか、と微笑み、階段を昇った。部屋に戻ると、おかえりなさい、と布団の中から姫の声。
「今、外で剪定してるよ」
「センテイ?」
「うん。蔦やら何やら伸び放題やしねぃ」
「え? 伐ってるの?」
「うん。大家さんが職人に指示してたよ」
しばし沈黙する姫。
「ん? どしたぁ?」
「や、トイレの窓の…」
トイレのルーパー窓に絡まった蔦のことを思い出した。
「ああ、絡まった蔦のこと?」
「うん… 伐られちゃうのかなぁ?」
「うん、そーだね。伐られちゃうね…」
「…そっかぁ」
姫の顔色が曇った。
「あたしは別に構わないのに…」
「や。でも、夏になるしねぃ。大家さんトコなんて虫わんさかおるんちゃうかなぁ?」
「可哀想…」
寝る、と云うと、姫は背中を向けて寝入ってしまった。
住居を管理する側である大家さんのベクトル。そこに居住する者のベクトル。そして、双方のベクトルの合致点・共通項として選ばれた物云わぬ植物──。
自然との調和と共存は難しいことなのかも知れない。
心地好い絶望感
抵抗 逃避
そんな 希望 願望 を抱くことすら
脆く 儚い 叶わぬ 幻想
陳腐な 期待は
頭の中に想い描くだけで 無謀
ただただ 目の前に 立ち尽くすだけ
手を伸ばせば 届く距離にいるはずなのに
手を伸ばすことすら 儘成らず
自然に溢れ出す涙には
感情すら 篭っていない
ただただ 目の前の存在に
立ち尽くすだけ
絶望感
悲観的な絶望感ではなく
心地好い絶望感
助かる可能性が
ひと欠片も残されていないことに
何の疑問すらも 抱かず
底の無い 真っ暗闇の湖へ
徐々に 飲み込まれてゆくような
ただただ 堕ちてゆく
音もなく 静寂に包まれながら
ただただ 堕ちてゆく
それが 真の絶望感
心地好い絶望感──
姫と皇帝のありふれた1日
14:00頃、起床。
皇帝は皇族御用達ボトル珈琲を飲みつつ、昨日、街の職人に焼かせたパンを食す。

