感動とは
必然をコントロールする
美しい魔術──
2007年5月 アーカイブ[18]
信と殉
「信じる」と云うこと。
僕の「信じる」の定義を掘り下げてみる。
僕は「信用」や「信頼」など、兎に角「信」の字が付く言葉に対して、多数が思われがちなことを据えていないと感じる。
言葉尻だけで云えば、僕は誰も信用していないし、信頼していない。
この「誰も」には無論「自分」も含まれている。
「信」とは「自」から発生、或いは「自」が保有するするものではなく、「他」からの評価、或いは客観的な「状況説明」ではなかろうか、と。
これは文字面からも簡単に推測できる。
「信」と云う文字は「にんべん」に「言う」だ。
にんべんは「人」を表している。
「人が言う」。時系列的に過去ならば「人が言った」──これが「信」だ。「信」とはそう云う要素で構成されている。
…と云うことは、何かを言っている(言った)のは自分以外の人間、平たく「他人」と云うことだ。
自分を差す言葉で「人」と云う表現はしない。また、「他人」と書いて「ひと」とも読ませる。
「人」と云う呼称・名詞は自分と隔絶された、云うなれば「二元物」について表現される言葉だ。
こう捉えると「信じる」と云うことが、どう云うことだか紐解けるように感じる。
例えば、「わたしのこと信じてね」と云う言葉。
これは「わたしの云うことに猜疑心を持たないでね」と云う「依頼」或いは「指令」であり、ともすれば「強要・強制」である、と云えよう。
お解り頂けるだろうか?
故に、僕は誰も信じないのだ。くどいようだが、これには「自身」も含まれている。
人が言うことなど流動的で常に不安定だ。そんな曖昧なことに自分を預ける気にならないのだ。
これは「安心」や「確約」を望んでいる、の裏返しではない。「信じる」など「無駄」だ、と云っているだけだ。
他人を嘘や某しで嵌めることは出来ても、自身からは決して逃れられない。
自己欺瞞という嘘は、自身の内面世界にヘドロのように醜悪に居座り続けるからだ。
ただ、そんな自身ですら自身を裏切る場合がある…
こう捉えると、どちらも信用できない。
──人は何処かで必ず嘘をつく。
僕は「信じない」代わりに「そもそも疑わない」と云うマントラを唱える。
猜疑心を向けなければ、そもそもわだかまりはなくなる。
「信じてたのに…」と云う想いも、そもそも発生しない。
内外共にベクトルを変えているだけで、このマントラはどちらでも通用する。
自分も他人も、そもそも疑わない。
これは大いなる「自己防衛手段」のひとつであり、まさしく的確な方策のひとつであると感じる。
空気の振動によって鼓膜に伝えられた情報は、そのときの「状況」を「説明」しているだけだ。つまり、「聴覚情報」。
また、角膜が伝える情報──「視覚情報」。これも同様だ。8割以上の情報をこの感覚で判断する、と云われている。
そもそも「嘘」も「本当」もない。時系列のベクトルの侭に流れてゆくだけだ。
そこに「信じる」などの「色」を付けるから、不毛なチェーンループに絡め取られたりするのだ。
その流れの渦中において──生きる、と云う「死」が分つまで継続される「事実」「現実」の渦中において──できるだけ心地好い感覚に包まれたいのならば、
そもそも疑わない。
ただただ、その状況を噛み締め、怯まずすべてを受け入れよ。
と、云いたいだけだ。
ま。自分にゆってるんやけどね?(´∀`*)y-〜♪
「信じる」は「状況説明」。
「信じたい」は「自己希望・願望・欲望」。
「信じて」は「指令・命令・制御・支配」。
いずれにせよ、対極に「謀反」が置かれる。
「絶望的だ…」などと安易に落ち込んだりするが、「真の絶望」とは「望みを絶つこと」。
被害者意識的に、他の影響により、このような感覚に苛まれる、と誤解されがちだが、その感覚を発生させたのは「自ら」だ。
「絶望」とは一切の望みを他に求めないこと。自らの希望・願望・欲望のベクトルは須らく自らに向けるべきだ。
著しく能動的行為であり、責任転嫁の矛先は他にはない。すべての責任は「己の存在」──ただ、その1ベクトルのみ。
そこに「孤高のナルシズム」を感じる。
それでも「信じる」ならば…
その想いを抱いた侭、潔く死ね。
それが「殉じる」と云うことだと思う。
僕は魂の殉教者だ。
僕の魂は僕の独占欲配下に据えられている。
その魂を愛したいと欲するならば…
殉じろ──。
信など不要。
殉さえ抱けば他には何も要らない。
それは皆が抱いている魂も同様だ。
魂に優劣はない。
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「理由なき反抗」と云う言葉がふと浮んだ。
ひと目盛り深海へ潜水。
多くの場合、理由や動機を求める。そして、対外的にはそれを知ろうと努める。
だが、なかなかに釈然に至らないものだから、深い濃霧の中を彷徨うことになったりもする。
その根幹原因である「理由や動機」──それらがなくとも某かの「結果」を導き出す。
「原因」がなく「結果」が生じる。
「自然」と云う言葉が浮上する。
やはり、一番尊く気高く、何よりも美しい。
そんな比較論を土壌に据えると「自然は美しい」と云うことが事もなく氷解する。
そして、同時に「結果が美しければ」と云う「暗黙の条件」も浮上する。
理由は要らない。動機も不要。
「生きる」と云うことに特別な理由はない。
生きるとは無為の極致。
「僕は○○のために…」などと、お為可笑しい勘違いをブラ提げて死ぬまで謳歌・堪能するが良い…☆
望まなくとも、願わなくとも…
それは確実に訪れる。
我が魂の命ずるままに──。
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抽象画の世界
迫力はあるが「粋」ではない
追憶 - Past, time goes by
小雨の降り頻る中、薄暗い舗道を歩く。
警笛の鳴らない踏切を越え、いつかふたりで歩いた道をひとり往く。
腹ごしらえにコンビニでおにぎりを買う。
慟哭の矛先となった公衆電話を横目で一瞥。
エレベータのボタン押下。
通い慣れた3階の事務所。
おにぎりの包みをゴミ箱へ放り、Macの電源を入れる。
5月一杯で居を移す事務所。
セブンスターに火を点け、つらつらとキーボードを叩く。
窓の外から雨音を掻き消すように、エキゾーストノートが耳を掠める。
独りって切ないなぁ…
心の声が誰も居ない事務所を覆う。
想い出は要らない。
望まなくても積み重なってゆくから。
殊更に、想い出作りに勤しむことはない。
紫煙を燻らし、追憶に想いを馳せる──。
大変身!─ママの七つの顔
Bourbon on the Rocks
大振りのオールド・ファッションド・グラスの中で溶けた氷に揺蕩うバーボン・ロック。
それを片手に僕は喩え話をする。
心変わり - a change of mind
心変わり──。
自身の半生を顧みて、苛まれている要因のひとつにこれがある。僕の中にはない要素のひとつ。
僕は根底に「不動の根拠」を据える。平たく「自身が決めたルール」。それに準じようとする「殉情」。それは決して揺るがないものだ、と。僕はとても頑固だ。
「頑迷」と云う言葉を当てた先輩も居た。「依怙地」とも。
対極に「心変わり」が挙がる。
「自分で決めたルールを覆す」──僕にはそう感じられてしまう。
そして「怖いもの知らず」と云う言葉が連動する。自分で決めたルールすら覆すのだ。怖いもの知らずで「当然」だ、と。
心変わりしない僕からすれば、心変わりする女の子は自由奔放だ。
それは決して拘束できるものではない。魂の拘束はできるかも知れないが、往々にして、その前段にある「心」がそれを阻む。そして「身体」がそれを拒絶する。
そんなとき、一陣の風が舞う。コミカルな表現で云えば、カラスが鳴く。(´∀`*)
心変わりは醜悪だ。
だが、それをいとも簡単に行える女の子は、
──とても美麗だ。
そんな風に思う。
静 - silent shout
“静”と云う文字。
例によって漢字解体遊びだが、ぼんやりと眺めていて、ふと感じた。