信と殉

「信じる」と云うこと。
僕の「信じる」の定義を掘り下げてみる。

僕は「信用」や「信頼」など、兎に角「信」の字が付く言葉に対して、多数が思われがちなことを据えていないと感じる。

言葉尻だけで云えば、僕は誰も信用していないし、信頼していない。

この「誰も」には無論「自分」も含まれている。


「信」とは「自」から発生、或いは「自」が保有するするものではなく、「他」からの評価、或いは客観的な「状況説明」ではなかろうか、と。


これは文字面からも簡単に推測できる。

「信」と云う文字は「にんべん」に「言う」だ。

にんべんは「人」を表している。

「人が言う」。時系列的に過去ならば「人が言った」──これが「信」だ。「信」とはそう云う要素で構成されている。

…と云うことは、何かを言っている(言った)のは自分以外の人間、平たく「他人」と云うことだ。

自分を差す言葉で「人」と云う表現はしない。また、「他人」と書いて「ひと」とも読ませる。

「人」と云う呼称・名詞は自分と隔絶された、云うなれば「二元物」について表現される言葉だ。


こう捉えると「信じる」と云うことが、どう云うことだか紐解けるように感じる。

例えば、「わたしのこと信じてね」と云う言葉。

これは「わたしの云うことに猜疑心を持たないでね」と云う「依頼」或いは「指令」であり、ともすれば「強要・強制」である、と云えよう。


お解り頂けるだろうか?

故に、僕は誰も信じないのだ。くどいようだが、これには「自身」も含まれている。

人が言うことなど流動的で常に不安定だ。そんな曖昧なことに自分を預ける気にならないのだ。

これは「安心」や「確約」を望んでいる、の裏返しではない。「信じる」など「無駄」だ、と云っているだけだ。

他人を嘘や某しで嵌めることは出来ても、自身からは決して逃れられない。

自己欺瞞という嘘は、自身の内面世界にヘドロのように醜悪に居座り続けるからだ。

ただ、そんな自身ですら自身を裏切る場合がある…

こう捉えると、どちらも信用できない。
──人は何処かで必ず嘘をつく。


僕は「信じない」代わりに「そもそも疑わない」と云うマントラを唱える。

猜疑心を向けなければ、そもそもわだかまりはなくなる。

「信じてたのに…」と云う想いも、そもそも発生しない。

内外共にベクトルを変えているだけで、このマントラはどちらでも通用する。

自分も他人も、そもそも疑わない。

これは大いなる「自己防衛手段」のひとつであり、まさしく的確な方策のひとつであると感じる。


空気の振動によって鼓膜に伝えられた情報は、そのときの「状況」を「説明」しているだけだ。つまり、「聴覚情報」。

また、角膜が伝える情報──「視覚情報」。これも同様だ。8割以上の情報をこの感覚で判断する、と云われている。

そもそも「嘘」も「本当」もない。時系列のベクトルの侭に流れてゆくだけだ。

そこに「信じる」などの「色」を付けるから、不毛なチェーンループに絡め取られたりするのだ。

その流れの渦中において──生きる、と云う「死」が分つまで継続される「事実」「現実」の渦中において──出来るだけ心地好い感覚に包まれたいのならば、

そもそも疑わない。
ただただ、その状況を噛み締め、怯まず総てを受け入れよ。

と、云いたいだけだ。


ま。自分にゆってるんやけどね?(´∀`*)y-〜♪


「信じる」は「状況説明」。
「信じたい」は「自己希望・願望・欲望」。
「信じて」は「指令・命令・制御・支配」。

いずれにせよ、対極に「謀反」が置かれる。

「絶望的だ…」などと安易に落ち込んだりするが、「真の絶望」とは「望みを絶つこと」。

被害者意識的に、他の影響により、このような感覚に苛まれる、と誤解されがちだが、その感覚を発生させたのは「自ら」だ。

「絶望」とは一切の望みを他に求めないこと。自らの希望・願望・欲望のベクトルは須らく自らに向けるべきだ。

著しく能動的行為であり、責任転嫁の矛先は他にはない。総ての責任は「己の存在」──ただ、その1ベクトルのみ。

そこに「孤高のナルシズム」を感じる。


それでも「信じる」ならば…
その想いを抱いた侭、潔く死ね。

それが「殉じる」と云うことだと思う。


僕は魂の殉教者だ。
僕の魂は僕の独占欲配下に据えられている。

その魂を愛したいと欲するならば…

 殉じろ──。

信など不要。
殉さえ抱けば他には何も要らない。

それは皆が抱いている魂も同様だ。
魂に優劣はない。

___ spelt by vincent.