Be believe

信じるか、信じないか。あるいは、信じられるか、信じられないか。
深い意味合いはさておき、よく耳にし、日頃から疑問に感じていた言葉だ。

例えば「心霊現象」。平たく、オバケなどの類。これについて「信じるか、信じないか」が持ち出される場合がある。人それぞれ選択肢は変わろうが、自分としては「信じる」に相当する。

または「血液型」。診断や相性。あるいは、占いなどだが、これについても同様のケースがある。自分としては、オバケと同様「信じる」に該当する。

なぜ、自分がこれらに疑問を感じていたかというと、概念として存在するモノに対して、なぜ「信じるか、信じないか」の二者択一が質問として発せられるのだろう、的なことからだ。

オバケを見た、見ないという情報を受けながら、あるいは、血液型診断は当たっている、当たっていないという情報を受けながら、なぜ「信じるか、信じないか」の二者択一が浮かぶのか? 皆目、見当が付かない。

多分、信じるモノの対象がぼやけている人の質問のような気がする。

自分を取り囲む情報群は、ウソや偽りが入り交じっている。逆に、正しい情報のほうが少ないかも知れない。その中から正しい情報だけを自分自身で取捨選択せよ、などとお為可笑しいことはいわない。ただ、自分自身の見聞は紛れもなくすべて事実である、ということだけを胸に刻みたい。

偶像崇拝や宗教なども同様の二者択一を迫るが、的外れな問いだと感じる。

一般として、アイドルに恋心を寄せ、信じていても願いが叶わないように。特例を除くが、神仏に祈りを捧げ、信じていても救われないように「あるか、ないか」が適当だと感じる。当然、自分は「ある」派だ。

「信じる、信じない」の対象は「人」に対してだけだ。

現実に呼吸をし、意思疎通の図れる相手でなくては「信じる、信じない」の対象にはなり得ないと考えるからだ。

いずれにしても「信じる、信じない」には「裏切り」が付き物だ。過度な期待が招く結果とも言えなくもないが、確実な要素として存在する。

「信じる、信じない」の過渡期を経て、やがて「裏切るか、裏切らないか」の二者択一が生まれる。非常に悩ましい問題でもある。

悲しいかな「両方ともあり得る」というのが正論だろう。

しかし、正論で人は動かない。だから、自分は敢えて答えよう──裏切らない、と。


…と、こういった口上は「口説いてる」ゆーのかしら?

よし、さっそく試しちゃお(^o^)/☆

___ spelt by vincent.