死んだ気になれば何でもできる、といった類いの精神論には何の根拠もない。
この手のテーゼを自身に課すのは一向構わないが、他に向けた激励の常套句として乱用するのは頂けない。
死んだら終わり。何もできない。故に、その気になっても何もできない。これが先の精神論の正解である。
この正解は、ある程度、思考が回転する者ならば大抵が知っている。知りながら放たれる先の精神論が、それほど他人に刺さる筈がない。
それでも尚且つ敢えて綴ろう。塗り染めよう。
死んだ気になれば何でもできる──。
一度も経験したことのないことを誰が否定できようか? 可能性の芽は摘んだ時点で死に体だ。──ほら、もう死んでしまった。
可能性の芽を摘む行為が、既に死んだ気にさせてくれるとは… 可能性がないのに何でもできるのか?
いやはや…
やはり、精神論はパラドックスに満ちている。脳内撹拌は生きている内にしかできない贅沢である。
生きてるうちにやりたいことをやれ。
そんな感じで♪
敬意と慈愛
相手に対する敬意がなければ優位性は保持されない。
つまり、人間関係における上下関係と云うものは、下の敬意によって確立されている、と云うことだ。
上を自負する諸氏は下の抱く類い稀なる慈愛を感じなければならない。それがなければ上では居られないのだから。
そうなると、どちらが上でどちらが下なのか… 何とも怪しげな枠組みの稀薄な境界線が透けて見えてくる。
ふと、そんなことを感じた。
特別と差別
特別と差別。どちらもフィルターが掛かっていることに違いはない。ベクトルは他者に向けられた完全な主観思想だ。
違いは、好意と敵意、善意と悪意とがそれぞれに分岐しているだけだ。その意向に呼応して某かを感じ、それに基づいた言動を採る。
好意・善意を寄せる者には特別な感情が働き、その期待に応えようと愛情なりを注ぎ、敵意・悪意を向ける者には根拠のない優劣や格差を付け、それを理由に排除しようとする。
特別視も差別視も根底部分では大差ない。
そのように見る主観思想がどちらかの言動を採択しているに過ぎない。
要するに、お互い様ということだ。
象り
自分が自分で思うようにうまく自分を象れないとき、或いは、自分ではないものにしか自分を象れないときというのは、相手に対する愛しさか、憎しみかのどちらかの感情に支配されている。
「優しい人」の反対って?
例によって脳内会議。緊急召集。
今回の議題は「優しい人の反対って、一体、どんな人?」
例えば、「いい人」の反対は「悪い人」。「冷たい人」の反対は「熱い人」。
じゃ、「優しい人」の反対って何よ?
ここで思考が旋回する。
反対というのは対義語であって「優しくない人」などの
日常の
「分かった。優しい人の反対…」
早速、嫁に報告。
「なぁ、優しい人の反対が分かったよ」
MJの特番に夢中の様子。
「ん? 何なの?」
「ああ。意地悪な人──じゃないかな?」
ドヤ顔でそう言い放った。彼女はしばらく僕の顔を眺めたのち、
「へぇ〜」
と。
すげないなぁ〜。もちょっと感動してくれてもえーやんけ…
そんな感じで♪
否定と肯定の差異
「金で買えないものはない──」
冷淡な面持ちで成金がそう嘯くと、対面している男がふっと瞼を伏した。
「ちょっと違うな」
訝しげに眉をひそめる。
「一体、何が違う?」
「分からないのか?」
男の口許には笑みがこぼれている。
「金で買えるものはすべて金で買える──だ」
成金はただただ呆気にとられて
レトリックを用いた論理破綻
文章表現には様々なレトリックがある。
「比喩」などは一般的であり、広く浸透しているようだが、「
迂言法とは、あるもの(こと)を単一の語句で表現せず、ふたつ以上の語句を用いて
一例)
「太陽から三番目の石」=「地球」
*Third Stone From The Sun 云わずもがなジミヘンの楽曲からw
「昨日の明日」=「今日」
緩叙法とは、否定的表現を否定したり、表面上、控え目な表現をすることで、印象の強度をより強める技法などを差す。
一例)
「嫌いではない」=「割りと好きだ」
「悪くない」=「結構良い」
*この例は飽くまで「緩叙法(一重否定)」であり、「悪くない訳ではない」などの「緩叙法(二重否定)」もある。
さて、前置きはここら辺で。
答えを聞いても答えがわからないトリッククイズ
↑これ、どーよ? そんなにムズイ?
ま、2007年5月くらいのネタやし、結構枯れてるんかな?
このクイズの文章自体は迂言法に該当するんかなぁ?
兎に角、ひとつ目の回答に行き着く人の思考が分からん。。
余程、読解力がないのか。。夢見心地なのか。。
ま、暇つぶしにどーぞ☆
コメント群も面白いよ☆
そんな感じで♪
戯れ言
まったく、つまらねえな。
自分がこれほどちっぽけな人間だとは思わなかったよ。
頭カチ割ってから何年経つんや? 2004年2月29日。あっそぉ。
ゆうに10年は過ぎたってか。余生だとか何だとかぬかしてやがってたが、、
何が変わったってんだ? な〜んも、何も変わっちゃいねえじゃねえかよ。
ただ、の〜らくら生きてるだけや。無駄の極致。
まぁま、こーやって食い潰していって、花も実もなく散ってゆくんやろなぁ。
おっそろしく、ゆーてもしゃーないことをゆーて気ぃ宥めてみるテスト。
大丈夫。
僕は元気です。
かわいげと生意気さ
常々、かわいげと生意気さについて、ヒエラルキー云々を考慮に含んでいたのだが、何てことはない、これらの観点も優位性によって左右されることに今更ながら気付いた。
と同時に、対等を望む無意味さを痛感した。
対等では何も生まれない。高低差がなければ何も生まれないのだ。
何が高きで、何が低きかは、相対する当事者間によって変化する。
物事が動くときには、圧倒的なトップダウン、或いは、強烈な下克上が発生するのだ。
そして、その契機は、冒頭の心理状態から繰り出されることが少なくない。
ふと、そんなことを思った。
優しさ
優位性に基づいた優しさは、真のS気質でないと持続しない。
真の優しさとは、生殺与奪を完全に掌握した者のみが放てる。