新たなルールを書いた紙を、人知れずそっとテーブルの上に置いてゆく神がいる。
どんなに理不尽で不条理な内容であっても、それが絶対的な掟となり、もし破ればその者の身に様々な危険が及ぶという。
或る男のもとにそれが届いた。
「実際、参ったぜ…」
「何が?」
「おきてがみさ…」
「置き手紙? 何だよ。『探さないでください』ってか? そりゃ『全力で探してくれ』ってメタファーさ。お前も隅に置けねえな」
「茶化すなよ。そんなじゃねえよ…」
「じゃ何だよ。柄にもなく深刻な顔しやがって」
「掟神さ…」
「掟神? 何だよ、そっちなのか?」
「ああ…」
「マジか、そりゃツイてねえな…」
「実際、参ったぜ…」
「気の毒にな…」
自問自答の神経衰弱 - 或る角度からの側面
自分の胸に手ぇ当てて訊く必要はねえんだが、そうするとナンボか落ち着くぜ。
手間ぁ端折らず手続き踏むと、案外、実感沸いたりするもんさ。
誰かに責められてる訳でも咎められてる訳でもねえんだが、自分だけが知ってる“やましさ”とやらが、ちらほらと浮かんでくるのさ。
それらを一枚一枚拾っては並べてみるんだ。そして、しばらく眺めてから、また一枚一枚裏っ返してゆく。すると、思いの他、安心するのさ。不思議だろ?
自問てな、そうゆうこと。
でな。自答する必要もねえんだ。自分で裏っ返したんだ。表が何だったかは覚えてるだろ? 忘れちまってたら、また裏っ返せばいい。答えはそこにある。
実際、厄介だぜ。
言い方なんてのは特にないが、語り方ってのは幾通りもある。
おざなりだろうが、ぞんざいだろうが、聞き遂げた者に響かなければ、何も言ってないのと同じこと。
刺さるフレーズてな音楽とよく似てる。
ロックが聴きたいときと、バラードが聴きたいときじゃあ気分が違うだろ?
奏でるように語り掛けるのさ、そいつのご機嫌伺いながら。
媚びてる訳じゃないんだぜ?
優しさってのはこちらの優位性の押し売りなのさ。
響かなければ煙たがれるだけ。
まぁ、何でも工夫が必要ってこった。
実際、厄介だぜ。
支点
真ん中がブレると支えられなくなる。
どちらか一方に傾ぎ、動けなくなる。
心と体の比重。どちらか一方に傾いだ状態ではうまくない。
それは善と悪も同じこと。
シーソーを思い浮かべると理解に容易い。
対を成すもののすべては、どちらか一方に傾いだ状態では本質を表現し得ない。
それらは常に揺れ動き、そのもの足らしめる本質を象ろうとしている。
どちらか一方が色濃く反映されていると感じられるのは、飽くまで、客観視。
それを見る観察者の観点である、と云える。
自身は最後の最後まで揺れている。
主観視とは、最後の最後まで油断しているものなのだ。
故に、観察者の都合に合わせた反映を見せるのだ。
真ん中がブレると支えられなくなる。
どちらか一方に傾ぎ、動けなくなる。
いずれか一方に傾いだ状態が長引けば、それを見る観察者の興味を失う。
観察者の主観とは、動くものにだけ反応するのだ。
──と、そのような観点があることを、自身の主観に加えてみる。
支点が定まらないと、視点が定まらない。
無意味
無意味なことに執着し、意味を持たせる。この行為こそが無意味である。
それは、せねばならない的確な理由を持たない。某かの理由がある時点で、無意味だとは云い難いからだ。
例えば、理由があるうちは極まっている状態とは程遠い。或いは、極まりを追わない求道など、それこそが無意味である。
表層の無意味さと真の無意味さには雲泥の格差がある。
研ぎ澄ませ。鋭利な刃物の如く。
追い求めろ。腹を空かせた餓鬼の如く──。
無意味なことに執着し、意味を持たせる。この行為こそが無意味である。
無意味なことに執着し、それを知り得る意味や理由など、いつしか何の意味も価値もないことを知り至るまで──。
研ぎ澄ませ。鋭利な刃物の如く。
追い求めろ。腹を空かせた餓鬼の如く──。
我が魂の命ずるままに──。
前世の遺留品
例えば、かなりの困難を極めたとしても、いずれ必ず見つかる探し物ならば、元々、自分の持ち物だったと云えそうだが、同等の労力を費やしたとしても、尚一向に見つからないということは、多分、自分の持ち物ではないのだろう。
前世の遺留品。
あろう筈もなく、遺失物届けにも決して挙がって来ないような架空の忘れ物。
それを求め、当て所なく彷徨っている様子を「渇望」と呼ぶのかも知れない。
前世の記憶ほど当てにならないものはない。
どういう訳か、それだけはよく覚えている。