植物と人間の関係──。
こんな疑問がふと生まれた。
我々人間は酸素を吸引し、二酸化炭素を吐き出す。対する植物は二酸化炭素を吸引し、酸素を吐き出す。
立派な「相互補完関係」だ。
我々は酸素を望む。
彼らはそれを生む。
彼らは二酸化炭素を欲する。
我々はそれを与える。
更に「取捨選択」を考慮に加えてみる。
何故、我々は酸素を拾い、二酸化炭素を捨てるのか?
何故、彼らは二酸化炭素を拾い、酸素を捨てるのか?
瞬殺氷解──「不要」だからだ。
「捨てる神あれば拾う神あり」
「拾う神あれば捨てる神あり」
そんなメビウス・リングが浮上する。
そして、その取捨選択には「独自」の「要・不要」分岐、それが「暗黙」で組み込まれていることに気付く。
穿って考察を続けてみると…
人間と植物の関係。
それは「お互いが不要としているもの」を相互に掠め奪い合いながら同居している。
と、云えるだろう。
もっと云えば…
お互いに忌み嫌っているものを押し付け合っている。
故に、調和しているように見えても根底ではお互いがお互いを避け合っているのかも知れない。
彼らの意図する「善・悪」とは…?
物云わぬ彼らは静かに問い掛け、静かに根幹を伝える。
2007年6月 アーカイブ[17]
ナビゲーション・デザイン考
クライアントとの折衝において、最もプライオリティの高い要素として「ナビゲーション・デザイン」がひとつに挙げられる。
ナビゲーション・デザインとは導線設計。平たく、導線の張り方・在り方である。
サイトに訪れたユーザに対して発信者の伝達したいことをベースにサイト内を的確に誘導する。
根底には発信者の意志や思惑が流れている訳だ。
「このサイトではこうするのがルールだ」的なもの。それが余りにも鼻につくとユーザは煙たがる。
それを如何に「さりげなく」感じて頂ければ良いか?
と、そんな風に捉えている。
発信者のベクトルを「一元的」と括るならば、受信者のベクトルは「二元的」と括れるだろう。「主観視・客観視」とも換言できる。
主観視は非常にウザイ。一元的な誘導設計は当人にとっては大変都合の良いものだが、二元的な者にとっては無関係であり、煩わしいだけである。
「や、云いたいことは分かるけどさぁ…」
こんな感情を抱かせてしまったら、ユーザは早々にサイトから足を切り上げてしまい、発信者の意志はうまく伝わらない。
「こちらの伝えたいことをあちらにうまく伝えるには?」
この命題が「ナビゲーション・デザイン」に掛かってくる。
現状、ユーザはかなり成熟してきている。
「Web2.0」なんて言葉がまことしやかに浸透しているのも、ユーザが成熟したひとつの証拠でもある。「素人にゃかなわんなぁ〜」などとぼやいている場合ではないのだ。
まず、素人に翻弄されている(自称含む)玄人が熟考せねば、クライアントの悲劇は終わらない。
僕は導線設計に「視線の流れ」や「心理的誘導」などを用いる。言い換えれば、こちらの『当たり前』を『当たり前』だ、と感じて頂くための工夫。
特段、派手な装飾などは不要である。
「詳細はこちらへ>」や「次のページへ>」
このテキストリンクだけでも立派な「誘導」である。
これを画面内のどこに配置するのか。要は「レイアウト・デザイン」である。視線の流れを考えれば、すぐに紐解ける。
伝えたい内容、要は「コンテンツ」の下部、それも右側。そこに配置するのが一番「自然」だ。
「デザインの輪郭」より「行為に溶けるデザイン」の一説。
行為に溶けるということは、そうしてしまう、ということです。
人間は、自分で決めて働いているのではなくて、環境に動かされている。
こんなフレーズ。
天動説や地動説、果ては操り人形の類いまで僕の頭の中では様々な事柄が狂喜乱舞したのだが…
能動的(であると思われている)行為ですら、実は受動的行為なのだ、と諭されたようにも感じる。一様に限りなく「意志薄弱」である、と。
そして、少し脱線して…
先天的な「S」は存在し得ない。「生まれた」と云う、ただそれだけで、そのこと自体、事実が既に「M」なのだ、と。
vincent. SM論にまた拍車が掛かってくるのだ。
それらを踏まえて、的確な「ナビゲーション・デザイン」を根底に、有効な「レイアウト・デザイン」を以て、一元から二元へと意思を伝達する。
『わたしからあなたへ…☆』──そんな「コミュニケーション・デザイン」にも通ずると感じる。
主観・客観をうまく取り入れ…僕はよく「俯瞰しろ」と云う言葉を使う…グローバルとローカルとを双方のベクトルを捉えよ、と。
そうすることによって「自然」と云う最も適宜な「必然」が導き出される。
…敢えて、受動態で括ってみた。
深澤氏(前述の本の著者)は、こうも綴っている。
僕がこれを考えたように見えるといわれますが、それは僕が考えたわけではなくて、そうなるべき姿であったということの結果だと思います。
僕の好きな語彙のオンパレードである。
これのタイトルは「考えない(without thought)」──タイトルから悶絶である。
「そうなるべき姿」──僕は「然」と云っているが、これがすべての「本質」である。
その本質を如何にうまく伝えるか。
ナビゲーション・デザインに関わらず、すべての道に通ずる命題だと感じる。
それに対して自問自答を繰り広げ、答えのない迷宮を延々と彷徨っているのが、我々「人間」と云うオブジェクトの「然」である。
故に、「生あるうちは救われない」と云い切るのだ。「救われたい」と願うこと、望むこと、それらすべての「願望」を棄てよ──絶望せよ、と。
そうすることによって浮上してくる「新たなる然」。
それは「新たなる」と云う「錯覚」を覚えたりするが、紛れもなく、そもそも保有していた「然」である。無いものは決して顕われないのだ。
それを僕は「ポテンシャルの覚醒」と呼ぶ。
「そうなるべき姿」とは「本来の姿」。
そこへ帰ってゆくのに躍起になっているのだろう。
生を継続するにあたり、否が応にも…要・不要を問わず…某かの「プラス」が蓄積されてゆく。
要・不要の品定めを吟味し、不要(と思われる)要素を思い切って棄てる。
僕は「マイナスの美学」と呼んでいるが、その根幹は「回帰願望」なのだろうか?
純粋
デジタル・データの良いところ──それは「追記・推敲・編集」が容易にできること。
自らが噛み締めるために、ヴィジュアル化、或いは、文章化して顕示化する。
自らで反芻の材料を蓄積することができる、と云う点だ。
僕が「コンピュータで絵を描きたい」と思ったのは、この「追記・推敲・編集」に集約されるのかも知れない。
アナログでの制作は常に一発勝負。自分の意に反して絵の具が落下しただけでもすべてが台無しになることもある。
「修正」はない。その「やり直し」すら許されない。
アナログとはそう云う世界。
見た目の補修や取り繕いを施すことは出来ようが、醜い「修正痕」を残す。
例えるなら、楽器演奏のときのアレである。「あ。今、間違えた…」
だが、それすら「作風・風合い」に高めることが出来たなら、Nobody's perfectを立証し、且つ、高尚な「激励」に昇華する。
「完璧」なんて有り得ない。ただ、それを目指すベクトルが美しいのだ、と。
僕がヴィンセント・ヴァン・ゴッホを尊敬するのは、彼の作風・画風なりを注視しているからではない。
彼の「生き方」──それに大いに惹かれるからだ。
彼は現代医学では「メニエル」と云う病名で知られることとなった病理に苛まれていた。
だが、当時は未解明だったため、現代よりも不当な隔絶感を味わったことだろう。
専門家でもないので詳細は言及できないが、症状として常に船の上に居るような状態。酔っ払って地面がグラグラする、例のアレ。
そんな状態が彼の「日常」だったのだ。普通の人と「普通」が違うのは「当然」だと云えよう。
少し脱線するが…
そこで僕は「お互い様」と云うことを感じたりする。
大多数が抱いている「普通」、平たく「常識」と呼ばれるものは大多数が抱いているだけであり、すべてを網羅するものではない。
少数派も確実に実存する。
故に「常識論者」とは単純にそれを異端視し、排斥したいだけの思考だ、と。
僕はそこに民主主義の限界と破綻を見る。
そして、信じ難いことにこの民主主義の根幹は、一部の少数派のために機能している。そのことに疑いを抱かないのが多数なだけなのだ。
故に、「そもそも疑わない」と云う「気休め」が、まことしやかに感じられてしまうのだろう。
僕は侍は好きだが日本国家は嫌いだ。マッカーサーが降り立ったその日からアメリカの属国となった売国奴に興味はない。
国家が国を売ったのだ。そんなアホに興味はない。
閑話休題。
メニエル疾患者だった彼の作風・画風。あの独特のうねりのある強烈なタッチ。あれはその症状のひとつだったと云われる。
彼は単純に「写生」しただけなのだ。
小学生時分、写生大会なるものがあった。「見た通りに描いてご覧なさい」と図工の先生が云った。
僕は木の葉を真っ赤に塗ったくった。それを見た先生が、
「ふざけちゃダメ。見た通りに──」
と、眉を顰めたのを記憶している。
僕は、
「僕にはこう見えるんだ。木の葉が血を流している」
と答えた。先生は呆れたような顔をしていた。
写生大会の場所は環七に面したしょうぶ沼公園。菖蒲の美しさが取り沙汰されている公園だが、周りはトラックなどの往来が激しく、排気ガスが充満していた。
僕の答えは当時の僕に見えたもののひとつだろうと感じる。ただ、それが「見えない者」には「理解」に至らないのだ。
仕方ないのでアヒル小屋のアヒルを描いた。
写真で云えば絶好のシャッターチャンスと云ったところだろうか… アヒルが羽を広げているシーン。
背景には菖蒲を連ね、幾つか架かった橋も描いた。画面一番奥には綾瀬・北綾瀬区間をゆく電車も描いた。
所謂「遠近法」だ。
小学校3年のときに描いたその絵は足立区内のコンクールで金賞を頂いた。
ただ、自分の中では「写生」ではなく、「想像図」であったことを今でも覚えている。
また、脱線したようだ、、苦笑
ゴッホの話。
彼は、日本の版画家、棟方志功に絶大な影響を与えた。
棟方志功
あのうねりのある強烈なタッチを彼は彼なりに解釈したのだろう。
僕の好きな版画家のひとりだが、彼とゴッホとの違いは、彼は生前に自分の版画が売れた、と云うことだろう。
生前のゴッホはパンも買えないほど極貧だったそうだ。現在、どこぞのオークションで何億と云うカネで自分の画が売買されている様子を彼は全く知らない。彼の末裔が潤っているだけだ。
少し広げ過ぎたので、ここらでまとめると…
ゴッホは病の症状に基づく「写生」をし、自分の見たものを見たまま通りに描き続けた。
例えば、「耳のない自画像」などが有名だが、彼は同性愛者であったとも云われる。
当時、同居していた恋人に、
「この自画像、どうかな?」
と問い、
「んー…耳がちょっとねぇ…」
と云われたことを切欠に、自ら耳を切断したとされている。
何度、描き直しても描き直しても同じことを云われ続けたのだ。やむにやまれず…
驚くほどに「真っ直ぐ」だ。
ただ、これはメニエルの症状の一環でもあるらしい。
メニエル疾患者は常に船酔い状態だ。と云うことは、平衡感覚を司る三半規管。つまり、耳に違和感を覚えるのだ。
「だあああぁぁぁーーー邪魔臭いっっ!!!」
となっても何も不思議ではない。彼だけでなく、多くの症例がそれを示している。
ただ、やはり切断の痛みを想像したら、通常の人間ならば躊躇する。
「ええーーいいじゃん耳くらい…ちょとオマケしてよー」
と、恋人に「妥協」を迫るだろう。
だが、僕はそこに美しさを感じない。
ゴッホは愚かだが美しいと感じる。
どーでも良いならどーでも良い。
何でも良いなら何でも良い。
こんなシニカルな思考が巡り、挙げ句…
生きていても死んでいても、どちらでも構わない。
と云う「極論」に発展する。
僕は、彼はそれを「地」で行った、と感じている。一個の人間として。
彼の行動を社会的動物として捉えたとき、とても「愚か」だ。ただ、彼としては「彼」を全うしただけに過ぎない。
そこに「気高さ」を感じてしまうのだ。
民主主義と云う言葉が出たので、資本主義と云う言葉も出してみる。
僕は両方とも理解しているが好きではない。平たく「邪魔臭い」。
本当は一個の人間として…何の背景も考慮せず…腹を割って接することができるのならば、何の軋轢も圧迫も衝突も生まれないはずなのだ。
「みんながそー云ってるから…」
なんぞ、どーでも宜しい。
「お前はどーなんや?」
と、問いたい。
「お前は『みんなの代表』か?」と。
他人の顔色を窺うことを余儀なくされる思想。それが「民主主義」だ。
それを「教育」によって刷り込まれているから、何の躊躇もなく、不思議や疑問もすべて封殺されているだけだ。
「協調性」とは、こう云うことではない。お互いの「自我」を「尊重し合う」と云うことだ。
故に、アンチテーゼとして「魂で来いや」と吠える。
「乞食の説法は誰も耳を貸さない」と云われるように、ゼニがないだけの理由で、それを蔑み、貶め、愚弄する。資本主義が「人間愛」とは無縁であることの証明である。
故に、泥を食んでいない綺麗事には辟易とする。
僕は「純粋」で在りたい。
様々な価値観ベクトルが糾っていようが、僕は「純粋」で在りたい。
「生きる」と云うアナログの世界。
本来、やり直しは一切きかない。
「いつでもやり直しはできるよ☆」
それはアホの気休めに過ぎない。
僕はゴッホほど純粋ではないから、デジタルの世界で幾ばくかの自身を投影させよう。
デジタルの世界には「アンドゥー」がある。スペックと環境の許す限り、無限に「やり直し」が利く。
独自の「温さ」を感じはするが…
そこで資本主義の糧を得るなりして、自身の自由意志に基づく自身をなけなし「デザイン」しよう。
そんな風に思う。