純粋

デジタル・データの良いところ──それは「追記・推敲・編集」が容易にできること。

自らが噛み締めるために、ヴィジュアル化、或いは、文章化して顕示化する。

自らで反芻の材料を蓄積することができる、と云う点だ。


僕が「コンピュータで絵を描きたい」と思ったのは、この「追記・推敲・編集」に集約されるのかも知れない。

アナログでの制作は常に一発勝負。自分の意に反して絵の具が落下しただけでもすべてが台無しになることもある。

「修正」はない。その「やり直し」すら許されない。

アナログとはそう云う世界。

見た目の補修や取り繕いを施すことは出来ようが、醜い「修正痕」を残す。

例えるなら、楽器演奏のときのアレである。「あ。今、間違えた…」

だが、それすら「作風・風合い」に高めることが出来たなら、Nobody's perfectを立証し、且つ、高尚な「激励」に昇華する。

「完璧」なんて有り得ない。ただ、それを目指すベクトルが美しいのだ、と。


僕がヴィンセント・ヴァン・ゴッホを尊敬するのは、彼の作風・画風なりを注視しているからではない。

彼の「生き方」──それに大いに惹かれるからだ。

彼は現代医学では「メニエル」と云う病名で知られることとなった病理に苛まれていた。

だが、当時は未解明だったため、現代よりも不当な隔絶感を味わったことだろう。

専門家でもないので詳細は言及できないが、症状として常に船の上に居るような状態。酔っ払って地面がグラグラする、例のアレ。

そんな状態が彼の「日常」だったのだ。普通の人と「普通」が違うのは「当然」だと云えよう。

少し脱線するが…
そこで僕は「お互い様」と云うことを感じたりする。

大多数が抱いている「普通」、平たく「常識」と呼ばれるものは大多数が抱いているだけであり、すべてを網羅するものではない。

少数派も確実に実存する。

故に「常識論者」とは単純にそれを異端視し、排斥したいだけの思考だ、と。

僕はそこに民主主義の限界と破綻を見る。

そして、信じ難いことにこの民主主義の根幹は、一部の少数派のために機能している。そのことに疑いを抱かないのが多数なだけなのだ。

故に、「そもそも疑わない」と云う「気休め」が、まことしやかに感じられてしまうのだろう。

僕は侍は好きだが日本国家は嫌いだ。マッカーサーが降り立ったその日からアメリカの属国となった売国奴に興味はない。

国家が国を売ったのだ。そんなアホに興味はない。

閑話休題。

メニエル疾患者だった彼の作風・画風。あの独特のうねりのある強烈なタッチ。あれはその症状のひとつだったと云われる。

彼は単純に「写生」しただけなのだ。

小学生時分、写生大会なるものがあった。「見た通りに描いてご覧なさい」と図工の先生が云った。

僕は木の葉を真っ赤に塗ったくった。それを見た先生が、

「ふざけちゃダメ。見た通りに──」

と、眉を顰めたのを記憶している。

僕は、

「僕にはこう見えるんだ。木の葉が血を流している」

と答えた。先生は呆れたような顔をしていた。

写生大会の場所は環七に面したしょうぶ沼公園。菖蒲の美しさが取り沙汰されている公園だが、周りはトラックなどの往来が激しく、排気ガスが充満していた。

僕の答えは当時の僕に見えたもののひとつだろうと感じる。ただ、それが「見えない者」には「理解」に至らないのだ。

仕方ないのでアヒル小屋のアヒルを描いた。

写真で云えば絶好のシャッターチャンスと云ったところだろうか… アヒルが羽を広げているシーン。

背景には菖蒲を連ね、幾つか架かった橋も描いた。画面一番奥には綾瀬・北綾瀬区間をゆく電車も描いた。

所謂「遠近法」だ。

小学校3年のときに描いたその絵は足立区内のコンクールで金賞を頂いた。

ただ、自分の中では「写生」ではなく、「想像図」であったことを今でも覚えている。


また、脱線したようだ、、苦笑
ゴッホの話。

彼は、日本の版画家、棟方志功に絶大な影響を与えた。
棟方志功

あのうねりのある強烈なタッチを彼は彼なりに解釈したのだろう。

僕の好きな版画家のひとりだが、彼とゴッホとの違いは、彼は生前に自分の版画が売れた、と云うことだろう。

生前のゴッホはパンも買えないほど極貧だったそうだ。現在、どこぞのオークションで何億と云うカネで自分の画が売買されている様子を彼は全く知らない。彼の末裔が潤っているだけだ。


少し広げ過ぎたので、ここらでまとめると…

ゴッホは病の症状に基づく「写生」をし、自分の見たものを見たまま通りに描き続けた。

例えば、「耳のない自画像」などが有名だが、彼は同性愛者であったとも云われる。

当時、同居していた恋人に、

「この自画像、どうかな?」

と問い、

「んー…耳がちょっとねぇ…」

と云われたことを切欠に、自ら耳を切断したとされている。

何度、描き直しても描き直しても同じことを云われ続けたのだ。やむにやまれず…

驚くほどに「真っ直ぐ」だ。

ただ、これはメニエルの症状の一環でもあるらしい。
メニエル疾患者は常に船酔い状態だ。と云うことは、平衡感覚を司る三半規管。つまり、耳に違和感を覚えるのだ。

「だあああぁぁぁーーー邪魔臭いっっ!!!」

となっても何も不思議ではない。彼だけでなく、多くの症例がそれを示している。

ただ、やはり切断の痛みを想像したら、通常の人間ならば躊躇する。

「ええーーいいじゃん耳くらい…ちょとオマケしてよー」

と、恋人に「妥協」を迫るだろう。

だが、僕はそこに美しさを感じない。
ゴッホは愚かだが美しいと感じる。


どーでも良いならどーでも良い。
何でも良いなら何でも良い。

こんなシニカルな思考が巡り、挙げ句…

生きていても死んでいても、どちらでも構わない。

と云う「極論」に発展する。


僕は、彼はそれを「地」で行った、と感じている。一個の人間として。

彼の行動を社会的動物として捉えたとき、とても「愚か」だ。ただ、彼としては「彼」を全うしただけに過ぎない。

そこに「気高さ」を感じてしまうのだ。


民主主義と云う言葉が出たので、資本主義と云う言葉も出してみる。

僕は両方とも理解しているが好きではない。平たく「邪魔臭い」。

本当は一個の人間として…何の背景も考慮せず…腹を割って接することができるのならば、何の軋轢も圧迫も衝突も生まれないはずなのだ。

「みんながそー云ってるから…」

なんぞ、どーでも宜しい。

「お前はどーなんや?」

と、問いたい。

「お前は『みんなの代表』か?」と。

他人の顔色を窺うことを余儀なくされる思想。それが「民主主義」だ。

それを「教育」によって刷り込まれているから、何の躊躇もなく、不思議や疑問もすべて封殺されているだけだ。

「協調性」とは、こう云うことではない。お互いの「自我」を「尊重し合う」と云うことだ。

故に、アンチテーゼとして「魂で来いや」と吠える。


「乞食の説法は誰も耳を貸さない」と云われるように、ゼニがないだけの理由で、それを蔑み、貶め、愚弄する。資本主義が「人間愛」とは無縁であることの証明である。

故に、泥を食んでいない綺麗事には辟易とする。




僕は「純粋」で在りたい。
様々な価値観ベクトルが糾っていようが、僕は「純粋」で在りたい。


「生きる」と云うアナログの世界。
本来、やり直しは一切きかない。

「いつでもやり直しはできるよ☆」
それはアホの気休めに過ぎない。

僕はゴッホほど純粋ではないから、デジタルの世界で幾ばくかの自身を投影させよう。

デジタルの世界には「アンドゥー」がある。スペックと環境の許す限り、無限に「やり直し」が利く。

独自の「温さ」を感じはするが…

そこで資本主義の糧を得るなりして、自身の自由意志に基づく自身をなけなし「デザイン」しよう。

そんな風に思う。

___ spelt by vincent.