ふと思考繊維に絡まったものを顕示化し、紐解いてみる。
僕は憧憬や羨望はない、と云い切っていたが、それはどうやら誤りのようである。僕にも憧憬の念があった。平たく「憧れの感情」である。
誰もが羨むバカップル
これがそれを形容するに適切な表現だと感じる。
ここで肝心の要なのだが、「誰もが羨む」と云う点がキーポイントである。
僕は演技派だ。
ちょっと自分で書いて笑けてしまったが、僕は都度「感じを出す」。そう云った意味合いで綴ったまでだ。
シチュエーションなりに演出や技巧を凝らしたりして独り悦に浸ったりする「危険な性格」だ。
独り悦と括ったが、僕もそれほどおバカなつもりもないので、それなりに周囲の空気は読めると感じている。知りつつも敢えて外す、と云う小憎らしいこともしたりはするが… 先天性DQNの所以である。
この根底には僕の「自分本位」や「自分勝手」などの定義にも通ずる。
「自分さえ良ければ他人はどうでも良い」と云う考えは、自分の周りに他人が居なければ、成る程、誰にでも成立する概念だ。
ただ、それは「人間」ではなく、ただの「人」だ。動物的セグメント、ほ乳動物に分類されている霊長類ヒト科と云うだけだ。
人の間と書いて「人間」。
故に、人間と云うのは生まれながらにして「社会的動物」なのだ。それは他我との境界を以てして自我を確立し、認識しようとする。或いは、認識し、確立しようとする手立てもある。
──双方共に「逆もまた真なり」である。
自我の受付けぬ、或いは、許容範囲を超える、平たく、拒絶を感ずるような自我と異なる他我の存在。自分以外の者・物──二元物の存在。
それらをも許容・包括せねば、或いは、許容・包括できないのならば、本当の意味での「自分さえ良ければ」と云う条件を満たしていることにはならない。
と、そんな風に感じる。
「君の自分本位なんざ甘くて浅いね?」と。
自分とは、読んで字の如く「自を分ける」と云うことだ。「領分」の「分」と捉える向きもあろう。それも一理ある。
だが、最終セグメントはやはり「セパレート」。要は「分離」と云う部分であると感じる。
ここから派生して「差別」と云う概念が発生し、ひいては「隔絶」「隔離」「排斥」までに繋がる訳だが、さておき…
「自の分」とは、平たく「自に分け与えられた領分」である。「エリア」「領域」等々、それらを形容する表現は他に幾らでもある。「身の程を知る」とは、これを知ることと同義であると感じる。
そして、「分け与えられた」と云う言葉が示すように、最初から自前で持ち合わせている者など、元来、誰ひとりとして居ないのだ。
社会的地位などは根底では何らの格差を持たない。
僕は「元も子もない」或いは「身も蓋もない」話をよくする。それは、それが「正論」だと感じるからだ。
僕は正しいことに強く心惹かれる傾向にある。これは「社会的正義心」や通念上の「善悪の判断基準」から発せられる訳ではない。
社会的正義などは、極論、何の役にも立たない。正義は簡単に死ぬ。それを振り翳し…例えば、ボランティア活動などに…精を出す輩にそれらを感じない。代わりに「偽善」と云う言葉しか浮かばない。「ああ。綺麗事云って満足心を満たしているのだな」と。
善悪の判断基準なども同様。
上述の「事実」が正しく理解出来ておれば、法律に律せられることなく、必然的自然に身に付いていて然るべきなのだ。
僕の云う「当然」には、こう云った部分が大半を占めている。
平たく「義侠心」である。
困っている他人などのために自分が出来得ることを提供するのが「当たり前」だと感じているだけだ。それも「自分の身の程を弁えて」。特別なことは何ひとつない。
そして「ために」と恩着せがましい物言いを綴ったが、これこそが「自分勝手の真骨頂」だと感じる。
──終局は己のため、であるからだ。
情けは人の為ならず。
ここまで掘り下げて、僕の云う「他人などどうでも良い」が、どう云った類いのものであるのか理解するに至るだろう。
ただ、この文章なりは自分が顕示化し、認識するために綴っているものだ。故に、他人の理解は求めていない。大きな声で独り言を云っていると思って頂いて構わない。
それでも、幾ばくか… この文章を読んでいる人が自身に某かを問うたとき、なけなしでもヒントになれば、と思って綴っているのも事実だ。
ふとした瞬間刹那に、突然の思考ナイアガラに見舞われるのが我々人間の宿命だ。
ロダンを揶揄するものではなく、僕は「考えない人」を考えられない。やはり、彼は偉大な芸術家だと感じる。
長い余談を踏まえて、僕の憧れの話。
誰もが羨むバカップルとは?
「サービス精神」である。
当事者間の愉悦を他我にも提供するよう努める、と云うこと。
巷のバカップルの括りとは似て非なる全くの別物である。他人が愉悦を感じないようであれば、それはそのまま「バカップル」なだけだ。迷惑以外の何ものでもない。
「誰もが羨む」がキーポイントである、と括った。ここが味噌だ。
穿った言い方をすれば「他人の憧れを煽る」。これには「嫉妬」も含まれてくるだろう。
真っ直ぐに云えば「巻き込む」。こちらの感じる心地好さに、心地好く強引に引き込む、と云うこと。
故に「サービス精神」と括るのだ。
二者間だけで成立している世界観を振り翳すな、と云いたいだけだ。それは、その世界観を否定するものではなく、「わざわざ、俺の眼に触れる所で晒さんでもえーやろ? いちびっとるんか?」と云う「茫然」「呆然」が根幹である。
ひねくれてグレている訳ではなく、単純に「つまらん」。僕は「おもろければ何でもえーねん」と括っている。その条件を満たしていないだけだ。
それは何故か。
サービス精神の欠如、である。この辺りが巷で認識される「自分勝手」の雰囲気。
「自分さえ良ければ他人はどうでも良いんでしょう?」
多分、それらを実際に遂行し…略して「実行」…垂れ流す輩は本当にそうなのだ、と感じられる。
逆に、と云うか…
故に、チープな愛や某かに浸透され易いのだ、とも。
誰もが羨むバカップルとは、掲げた時点で絶望的なくらい高次元な憧れだと感じる。
しかし、その基準を引き下げることはできない。僕は依怙地で頑迷で譲らない男だ。誰の命令にも従わない。
「姫。そろそろ出立致すぞ」
「はい。かしこまりました。殿」
このくらいの演技は必要だ。
そして、それを他人の前でも平気で晒せる度量。
僕は、それを「サービス精神」と呼ぶ。
にんべんに夢と書いて「儚い」
夢や希望は掲げた時点で儚くも潰えるのさ
河辺で釣り糸を垂らした吟遊詩人が
佇んだ道化に憐憫の眼差しを投げる。
コメント (2)
まぁま、しち面倒くさい講釈を連ねたが、
要は「一緒に遊びたい」ってだけなのだろう。。苦笑
この男は、なかなかどーしてアレやから、、
なかなか素直に本心を云わない。云えない。
故に、癒されない、と。。ププ
愉快なDQNや(´∀`*) 大儀であった。下がって宜しい☆
そんな感じで♪
DQN云々はさておき、、
このスペルの主旨である「サービス精神」とは、
平たく「エンターテインメント」における
「プロフェッショナリズム」を問うているに過ぎない。
一流のエンターテイナーたれ、と。
「自分さえ良ければ」と云う条件は、
「他人はどうでも良い」と考える向きには、到底、満たせないだろう。
また、「自分さえ良ければ」の「良ければ」の条件部分に
「わがまま」「自分勝手」が多分に内包されてるとするならば、
高尚なわがまま且つ自分勝手たれ、と願うばかりである。
ヒューマンな恣意・独善たれ、と。
条件が満たされていない状況で、その処理が行われることはない。
プログラム用語で云うところの「ブーリアン演算」。
true or false──「真か偽か」と云う判定。
そこで引っ掛かってるようでは、、
まぁま、精進しまっさ☆
そんな感じで♪