鏡と云う二元物。
便利なことに、この二元物は一元物を映し出してくれる。他人なのに自分を映し出してくれる。それが鏡の「役目」なのだ。「存在価値」と換言しても良い。
一元物と二元物との境界を弁え、そのセグメントに怯むことなく自身の役目を全うする。躊躇無く「有りの儘」を映し出す。
「鏡を見るようだ」とは、こう云うこと。
僕は恋人にこの「鏡の要素」を求める。
否、求めずとも備わっている、と云うほうがより正確だ。
僕の傍らに居た者はいつでも僕の姿を映してくれていた。
でなければ、僕が響く筈がない。
在るものしか顕われない。
無いものには響かない。
とは、こう云うこと。
「共感」や「共通項」などと云った概念ではない。突き詰めれば、それらは容易に見つけることができる。
同じ人間なのだ。差異は殆どない。
容姿などは表層。その者の一片に過ぎない。
絡めとられる向きの心の動きは理解できる。
──思考回路が短絡なだけだ。
インターフェイスは内面のリザルト。
vin.語録のひとつだが、表層が美しくないものは内面も高が知れている。
極論、性別の違いなどと云うセグメントすら精神世界においては大した問題ではない。
僕は表層の美しさも大切にするが、内面の美しさをより重要視する。
「可能性」の話をしているのではない。
可能性などと云う概念は、或る程度、何にでも当て嵌まり、追求する者には…その理解・解釈に至る方法手段等含め…「到達能力が高く備わっている」と云うだけのことだ。
──平たく「可能性が高い」と云うこと。
逆に「可能性が低い」と云う「確率論」に準ずれば、「高低差を論じているだけ」と云うことである。──要は「比較論」である。
その「高低差の確率論」を度外視して追求する姿勢…僕は「ベクトル」を示唆し「スタンス」と呼ぶが…真の「諦めない」とは、この「スタンス」のことを差す。
要は「精神ベクトルのスタンス」である。
例えば、到達に至らず、途中諦める者が「高低差の確率可能性比較論」に縋り、言い訳の材料として用いているだけなのだ。
「や、可能性低かったからさぁ…」
このスタンスが到達に至らない要因である。要因すらをも追求ベクトルから削ぐために、やはり、解明には至らない。
「愚のチェーンループ」
その痛々しい惨劇の序章である。
「鏡を見ているようだ」
僕は、こんな科白を口走ったことがある。
今まで生きていた中で二度ほどそんなシーンがあった。
一度目は稚拙な傲慢により僕から離脱し、自身で制御可能な他の二元物に設置場所を移動した。
自身の役目を知らないお茶目な鏡と云えば可愛いが、平たく、僕に対して謀反を起こした、と云うことだ。
二度目は…未だに釈然としないことが多々あるが…僕にも括り切れない様々な事情により僕から離脱した。
一度目の鏡同様、設置場所を移動した。
だが、根底には「健気さ」と「献身さ」が窺える。僕に対しての謀反は微塵も感じられない。
喩えようのない美しい鏡だ。
一度目の「錯覚の鏡」を手に入れた僕は自身に眠る「稚拙な傲慢」や「根底の残酷さ」を知った。
それはそれで封印してしまえば済む話。もう見なくても構わない。僕には不要の鏡だ。
二度目に手に入れた鏡で僕は…
一体、何を知ったと云うのだ…?
曖昧なアウトラインが輪郭を滲ませる。
「家族」と云う言葉が仄かに見える。
僕が「表層」と括っている部分だ。或いは「製造元」「生産ライン同ロット」等々。
「絆」はここには置かない。
否、置く必要がない、と感じているからだ。
やはり、二元物は何処まで行っても二元物である。捉えることは到底できない。
「可能性」の話をしているのではない。それに準えれば「不可能である」と断言しよう。
人は捉えられないものに囚われてやまない。
男と女は何処まで行っても擦れ違い。
解り合えることはない、永遠に──。
故に、追いつ追わせつ、そんなことを続けるのかも知れない。
新しい鏡は要らない。
僕の内面には美しい鏡が未だにある。
その鏡と別の鏡を比較するつもりもなければ、今後、比較できる壇上に上がるものが見つかるかどうか…
「自分のことが知りたい」
そんなことを鏡が云った。
「僕の眼の前に立つといい。全部、映し出して見せよう」
両手を広げ、口許には微笑をたたえて──。
見る者が見れば「不気味」と捉えるかも知れない。
僕は自分自身の内面に眠る「危険性」を熟知している。
倒錯の世界観は淫靡でシュール。
そして、危険な馨りが立ち込める。
コメント (2)
擬人法と現実世界観のコンフュージョン。
脳内ランデヴーはお伽噺を捏造するのに、
忌憚と余念がない。
ときに、思考回路は重宝するが、虚しい。
虚しいほどに空洞だ。
鏡同士の対話。 イメージするならば、単純に「合わせ鏡」。
鏡の世界は二次元世界。x軸とy軸で構成されている。
三次元世界にはz軸(奥行き)がプラスされる。
「合わせ鏡」とは、二次元に三次元を延々と連ねる、と云うことだ。
飽くまでも二次元における世界観なのだが、、三次元だと「錯覚」してしまう。
──そのように「見える」からだ。
合わせ鏡をした場合、同じ絵柄が延々と繰り返される。
…筈なのだが、
連なる何枚目かの鏡の中に
「違う姿」が映っているかも知れない。
「違う表情」が浮かんでいるかも知れない。
もしかしたら、それが「本当の自分の姿」──。
それは、美しい姿なのか、醜い姿なのか…
それを垣間見ることは──
果たして、出来るのだろうか──。
我が魂の命ずるままに──。