私利私欲がない、ということが一般的に好まれたりするのは、そう判断する向きにとって単純に好都合だからだ。
美徳とは、このように独善的に定義される。
私利私欲のない人は生きているとは云えない。極論、生ける屍だ。
煩悩なくして生き長らえられるほど、人は図々しくできていない。
願わくば、崇高な私利私欲を垂れ流せ。
崇高な私利私欲とは、己の自己満足度を臨界点まで高めることだ。
絶頂。最高潮。クライマックス──。
崇高な私利私欲に目醒めたとき、真のナルシズムの片鱗を知る。
コメント (3)
煩悩万歳!ですね。♪( ´▽`)
私利をむさぼり公利を満たす。
私欲を貫き公欲の礎とする。
Long live worldly desires.
耳障りの良い綺麗事は棚上げの美学☆
モチベーションはパッションありき☆
そんな感じで♪
「私」の「利」を何処に置くのか。
自己満足度を高めるためには、この自問が必須。
例えば、your pleasure is my pleasureとするならば、
私利に他人が加わることは必定となる。
「自分さえ良ければ」と云う条件は、
他人の存在なくして決して成し得ない。
比較する対象を持ち得ないからだ。
自だけで判断することは困難を極める。
「良ければ」と云うのは、何処まで行っても「比較論」なのだ。
「自」とは、哀しいまでに「他」なくして存在し得ない。
しかしながら、所有者はひとり。
自の所有者は自、ただひとり。
唯一無二とは、こう云うこと。
ここに「ナルシズム」を充てる。
「一人」と「独り」の違い。
寂しさの代表格とも云える「孤独感」とは、
自の近隣に他人の存在を感じるからこそ沸き上がる感情だ。
その「距離感」に憂いを感じているだけなのだ。
例えば、生まれながらにして無人島で育ったのならば、
沸き上がるプロセスすら踏めないだろう。
…などと、当たり前のことを私利私欲に乗せてうっかり綴ってみる(´∀`*)