自己を認識する方法手段として、主観と客観とを用いて表現するならば、
自身であると思い込んでいる自身を、傍観者のように客観視している。
──と云えるだろう。
だとすると、極論で云うところの『自己中心的でない人間など存在しない』と云う至言めいた確信が揺らいで感じられる。
そもそも客観視している自身に「中心」などと云う「主観」があろうはずないからだ。
客観視している自身を中心として主観視し、それを基軸に不動の根拠とすることに疑念と躊躇がない。
何とも奇天烈だ。