マイナス考

人はマイナスや負の要素に対する耐性が弱い。

歯の浮くような科白や耳障りの良い綺麗事を好む傾向にある。ただ、それではやはり「かたわ」だと感じる。

つまりは「フリーク」と云うことだ。

辛辣さや厳格さの中にこそ「リアル」がある。どうしても分つことができない「大いなる矛盾」なりが、あらゆる物事の「本質」を具現化し、解き明かしているに違いない。

僕はそう感じてやまない。

強烈な自我なり、自身を支える根幹となるものは「自己満足」──ここに到達する。

その対極にあると思われる「他人」。
「他我」と云う二元物の存在。

「他人のことを思いやる」と云う言葉など、それは綺麗事ベースの「気休め」に過ぎない。そう思いたい自分が居るだけなのだ。

凝縮されたコアと云うものは驚くほど空虚で情け容赦なく、元も子も身も蓋も何もない。

表層上の論旨は成るほど美しいと感じるが、果たして、その綺麗事の類いを実践出来ているか否か… 自身だけで判断するには些か支障を来たしそうだ。

そこで「利用」と云う言葉を使う──他人を利用する、と。

踏まえて「自己満足度を高める」と云う「作業」。これが人が生きるための「なけなしの根底」である。

だが、最終的にはその行為すらも「どうせ死ぬ」と云う、すべてを呑み込むマイナス要素に打ち砕かれる。

真理とは、いつでも冷淡な笑みを投げ掛けている。慈悲などと云う幻想に縋る我々は優柔不断で甘いだけなのかも知れない。

真理の存在。責任・無責任で云えば非常に無責任であり、道理・不道理で云えば甚だ不道理である。所謂、理不尽と不条理がすべての根幹を司っているのだ。

マイナス要素は何処まで行っても「強靭」だ。旅の途中、某かのマイナス要素にやられそうになるのは、この「根幹絶対皇帝制度」が最大の要因だ。

彼らは圧倒的に強い。我々は彼らにひれ伏している「奴隷」なのだ。

故に、その対極──プラス要素を以て「回避」しようと試みる。

「なけなし」とは、こう云うこと。

「解決」ではない。飽くまで「回避」。或る向きは、そのまま「逃避」にスライドする。


自己満足度を高めるために、その方法手段を模索し、途中で浮上した「覚束無い方法」を以て、あれこれと「試行錯誤」し、その成果を「他人」と云う「二元物」の存在を「利用」しつつ、跳ね返して「己」で把握しようと努めている。

生きる、とは、たったそれだけのこと。
──僕は、正しいことしか云わない。


「生きる」と云う己の「最大の傲慢」を貫くためだけに、すべての人は存在するのだが、やがて「死」と云う何人たりとも不可避な「現実」の前に、存在の根拠である「肉体」と云う「魂の器」から離脱せねばならない。

どうせ死ぬ、と云うのはマイナス要素ではない。紛うことなきリアル。濃度の高い現実。何人たりとも、いかなる生命体もこれを避けることはできない。

そこで最大のマントラを唱える。

 いつか死ぬ。

「どうせ」と云うネガティブ因子を「いつか」と云うポジティブ因子に置き換える。

たった、これだけの作業でガラリと印象が変わる。清々しささえ感じるが根幹は何ひとつ変わらない。

何も変わらない、とはこう云うこと。

耳障りの良いことなど、すべて「気休め」。
最大の毒を吐けば──「現実逃避」である。

 いつか死ぬ。

これが「最大の命題」に対する「回答」である。最後の答えは既に出ているのだ。

生を授かった瞬間から最終回答を享受しているにも関わらず、何とも、よちよち歩きではないか。
僕の場合、千鳥足のほうが圧倒的に多いが…


「最大の命題」として何を掲げるか。

生きるとは、人生とは「自己満足度の高い自問自答」。それを肉体が滅却するまで継続しているだけだ。

故に「如何に振る舞うべきか」。この「自問」と云う「レーダー付きの小判鮫」が常に追撃して来るのだ。

或いは、スライム状の溶液であったり、ネバネバと吸着する粘液であるかも知れない。兎に角「しつこい」ことだけは確かである。

それら不愉快な魑魅魍魎の類いを祓い除ける最大の呪文は以下の通りである。


我が魂の命ずるままに──。

___ spelt by vincent.