眩しい魂を目の当たりにして灰色の脳細胞が活性化した。
「成長」──。
一般的には「プラス要素」の言葉。
角度を変えて捉えてみる。
「成長したなぁ〜」などと「他己評価ベクトル」と「自画自賛ベクトル」の両ベクトルがある。
どちらも「プラス要素」としての意味合いから発せられる。「頑張ったね。よし、次も頑張ろうね」的な。
これを「マイナス要素」として捉えてみる。
生物学的に見れば、人間の成長は二十歳で止まる、と云われている。脳の成長はこの時期を境に劣化してゆく。
要は「老い」──「衰退」である。故に「成長は有り得ない」と云う、ハイパーネガティブが成り立つ。
僕は、そのようにシニカルに捉えることが多いかも知れない。所謂「元も子もない」「身も蓋もない」的な。
方法論として「地の底まで叩き落してから再浮上させる」と云う方法論を好んで用いる。
云うならば「網羅」──「上から下まで、下から上まで」。
そこに「重き」を置くのだ。間を端折っているものには中身を感じないからだ。「スカスカや…」と。
成長は有り得ない──。
この仮説を覆す、否、証明するには脳細胞をフル動員させなければならない。手抜きではうまく運ばない。
相応の魂を削る。
僕はそう云った類いの「自問自答」──要は「自虐プレイ」が好きなのだ。
魂を削ってみる。
仏教で云うところの、
「
この言葉が「成長」を的確に表現していると感じる。
平たく、「どんなに枝葉が生い茂って見えようとも、ひとつの根幹によって支えられている」と云うことだ。
それに「臨機応変」をプラスすれば、
「適宜、枝葉を千切って変化に対応する」。
機に臨みて変(化)に応ず。──まさしく、である。逆に、枝葉の数・量が少なければ「テンパる」確率が増す。
ただ、それだけだ。
我々と昆虫を比較してみる。昆虫の中でもカブトムシのような甲虫を例に挙げたい。
彼らの躰は外側が固く、中身が柔らかい。我々は外側が柔らかい肉に覆われており、その肉の中身を固い骨が支えている。
ちょうど、真逆の関係だ。
彼らは脱皮などを繰り返し、外側を脱ぎ替える。外側の鎧を一度コーティングして一回り肥える。
──そんな「成長」の構造。
我々は脱皮しない。内側の骨の成長に併せて、外側の肉もそれにシンクロする。
──そんな「成長」の構造。
例えば、骨の成長が止まっているのも関わらず、外側の肉ばかりが成長するなり、溢れんばかりに肉を蓄積するなりの様子──それが「肥える」と云うプロセスだ。シンクロ率が低い証拠である。
さておき…
彼らは一生が短い。短命である。故に「成長が止まる=死」と云う図式が当て嵌まる。
弱肉強食などの食物連鎖の都合上、「天命」などと云う概念が我々のそれと同義ではない。
強者の糧となる場合がなきにしも非ず。
宇宙の法則的な「天命」だろう。彼らはとても潔い。生きることに思考を費やさない。
対する我々は成長が止まっているにも関わらず、生を存続しようと思考の限りを尽くして足掻く。
──「生き恥」とは、まさしく「恥の頂点」であろう。
その恥ずかしい最中…「生きる」と云うプロセス…において、我々は某かの障壁なりを感じたりする。
僕は「虚像の捏造」などと揶揄するが、それらを打破しようと某かの工作を試みる。
打ち破った暁、一般的には「成長」などと呼ばれる。
成長ではない。虚像を退けただけである。そもそも何もない所に仮想敵を設け、それを退けただけなのだ。
故に「虚像の捏造」と呼ぶのだが、踏まえて「成長は有り得ない」と云う仮説。
人は本当に成長しない。愚の骨頂である。
──枝葉が生い茂るのみだ。根幹的な成長は或る程度でストップしている。
…にも関わらず、「成長」を感じるのは何故か? 実際、この駄文なりは、それを感じたからこその能書きである。
何故か──?
魂の輝き、燦めき。
それが眩しく光り輝いている。
──からだ。
それは視覚機能を度外視して魂で感じる崇高な領域。
故に、心のセルライト収集を──。
我が魂の命ずるままに──。