大小様々の円──。
円の輪郭は境界なのか柵なのか檻なのか、甚だ不明ではあるが、いずれにせよ、その円の中から外れないように、或いは、溢れないように、規則的に、ときには、不規則に、その円の中で一連の挙動が終始する。
大きい輪、小さい輪、と云ったほうが分かり易いだろうか。いずれにせよ、そこからはみ出してしまうことを何よりも恐れ、不安がっているようにも見える。
私は、どの円にもどの輪にも属さない。或いは、私は、どの円でもどの輪でも属せる。
属さないからこそ属せ、属せるからこそ属さない。
「色即是空」「空即是色」と云う言葉が頭に浮かぶ。
円、或いは輪を…高台でも良い…いずれにせよ、それが存在する同等の水平軸で見るのではなく、垂直軸を引き上げ、全体が見渡せるようにして俯瞰してみる。
すると、何とも珍妙な円、或いは輪が犇めき合いながら、互いが互いを求めているようでもあり、敬遠しているようでもあり、また、内部で蠢く種々多様のベクトルが直線的でもあり、曲線的でもあり、さながら、糾える縄の如く複雑に絡み合っている。
おぞましく陳腐で、脆く儚く健気だ。
その中の円、或いは輪に飛び込むことは至極容易だ。私は、どの円にもどの輪にも属していないのだから、私が、どの円でもどの輪でも属せると云うことは至極当然のことなのだ。
「着脱可能」と云うことは「不即不離」と云うことに他ならない。
平たく「即かず離れず」と云うことだ。
ここで「浮遊」と云う言葉を宛てがう向きもあるが、私は敢えて「同化」と云う言葉を宛てがってみる。或いは「擬態」。カメレオンなどのあれである。
Web上などで犇めき合っている情報・データの類いは必要を感じない者からすれば、無益で不要な、無駄なデータの密集に過ぎない。
そこにもやはり、円、或いは輪というものが存在し、「カテゴリ」や「セグメント」などと云う定義で括られる。
そして、その認知度が上がるにつれ、「市民権」を勝ち得るのだ。
この辺りに「多数決」と云う言葉が隠されているに違いない。或いは「マジョリティ・マイノリティ」などの言葉でも呼ばれる。
「多数決の嘘」とは、この擬態に翻弄されているだけに過ぎない。所謂「なりすまし」を「真」として捉え、愚直に「錯覚」しているだけなのだ。
本質的には不要であるにも関わらず周囲に流され、それを保持せんがために躍起になっているだけなのだ。
非常にくだらない価値観だと感じる。ここに重きを置き「常識人」と云うレッテルを望む者の多いこと、少なくないこと。
脆く儚く愚かな思考回路だと感じる。
すべて棄ててしまえ。
自身が持っていると錯覚しているものも含めて、すべて棄ててしまえ。
そうすることで本当に何も持っていないことに初めて気が付くのだ。何もない。最初から何も──。
このことを揶揄するように「マイナスの美学」と云う言葉を練り上げた。
それは「プラス思考」へのアンチテーゼでもあり、棄てることの不安を少しでも取り除きたい、と云う私の心情の吐露でもあるのだ。
大小様々の円──。
その円の中が心地好いならば致し方ない。お気の召すままに、謳歌、堪能されたし。
しかしながら、現状打破を望む者ならば、様々な円、或いは輪の存在を知り、軒並み飛び込んでみるのも一興だと感じる。
痛い思いをするか、未曾有の快楽待っているか… それは個々の魂の運次第──。
一生懸命に努力すれば必ず報われる、と云うのは浅はかな人間の愚かな希望。
人は生まれながらにして不平等なのだ。そこに「分相応」と云う言葉を宛てがえば、自分自身に降り掛かった殆どの事象に符合するだろう。
私は人間が好きだ。
不平等だからこそ面白い。
興味は尽きない。
そもそも粒子の集合体が密度を密にして犇めき合い、肩を寄せ合い、臆病なまでに震えながら、それでも尚且つ滅する瞬間まで、その脆く儚い営みを継続しているだけなのだ。
大小様々の円──。
我が魂の命ずるままに──。