平穏とは
変わったこともなく
穏やかであること(さま)
相変わらず辞書には引っ掛かること。暫し。
変わったこともなく、とは…
瞬間瞬間、刹那刹那、変化の連続だ。
往々にして好転を望むが悪化も免れない。
だが、どちらの変化も肩肘張らず、臆することなく「受け入れる」べきだ。
変化のないことが穏やかであるとするならば、穏やかであること自体、蜃気楼のようなもの。
対が「不穏」。
穏やかでないこと
危機や危険を孕んでいること(さま)
常に、この状態だと感じるのだが、不確かなものに「安心」し、某かの「虚栄心」に埋没してやいまいか?
知らないことのほうが多いことを
知っていることのほうが少ない
知っていることのほうが少ないことを
知らないことのほうが多い
波乱を招く元凶は常に自己の内面に端を発する。己の吐いた言葉に呪縛され、身動きが取れなくなる。
確証は掴めなくとも、心が、魂が、何かしらの違和感を伝える。その状態は平穏からは程遠い「掻き乱れた」状態。
俺が平穏を望まない鍵がここに眠っている。
平穏に安堵している状態からは「新たな発見」はない。
同時に「新たな喜び」も知ることはない。
同時に「新たな悲哀」も知ることはない。
ポテンシャルの芽を自らが摘み取っている行為だ。
不穏を抱いて、波乱が立ちはだかろうと、俺は退かない。退くべきではない。その元凶が自らに端を発したものだからだ。
原因はすべて自分自身。自業自得の理。
自らが芳しくない精神状態に陥るとき、平たく「気分が悪いとき」は、自らが自らに対する思慮に欠けた波乱の種を、気付いたら気付かぬうちに自ら撒いたのだ。
それを他に責任転嫁しないことこそが、
ナルシズムの極致。
望まぬ悪化を呑み、不穏を呑み、波乱を抱き込む。それらに思考を消費される原因が紛れもなく自らであると、潔く受け入れること。
これが自称「スーパーM」の所以だ。
そして、同時に「スーパーS」でもある。