稚拙だ。余りにも稚拙だ。
それは「幼さ・あどけなさ」とは似て非なるもの。
方法手段や思考回路が限定された者は、その根底の傲慢さに気付くことなく、惜しげもなく優雅に恥を晒す。
それでは、たった一枚の枯れ葉ですら揺り動かすことも叶わないだろう。
そもそも「何もない」と云う現実から逃避しているだけだ。
Life has no meaning.
人生に、そもそも意味などない。
無駄の中に美徳を見出しているだけだ。
いずれ枯れ果ててしまうのだから──。
努力しても、それは回避不能。
それは神ですら覆せない自然の摂理。
或いは、盲目であるだけなのかも知れない。
そもそも見えないのだから、見ようとする能動的な行為は、成る程、その向きからすれば「通常」ではないのだろう。
一角であれ多角であれ、その当人からすれば、すべて不要。否、すべて「見えない」のだから「当然」なのだろう。
「弱い」とは「甘えの原点」。「強い」の「対」ではない。あらゆる認識なりは、そもそも脆く儚く弱いものなのだ。
だが、臆することなく強くあろうとする姿に美しさを感じる。その為には自身の弱さを呑み込む潔さが肝要だ。元々、強い人間などいないのだから──。
好都合・不都合の秤に掛け、よく吟味すれば、歪曲された誤解が氷解し、限りなく純粋な「真理」が溶け込んで脳細胞の隅々に浸透してゆくのかも知れない。
往々にして好都合を強く望むが、世の中、侭成らず、不都合なことのほうが多く犇めいていると云えよう。
好都合なときに服従し、不都合なときに翻る。成る程、「弱さ」を機軸に据えれば、極々自然な心理の動きなのかも知れない。
だが、稚拙さは払拭できない。
認識能力の低さを自ら暴露しているだけだ。
稚拙だ。余りにも稚拙だ。
「呆れる」とは、この状態を指すのだろう。
自身の望まぬ芳しくない状況に陥ったとき、せめて自身だけでも真摯に対峙したい。
他人は制御不能。
魂がそれを許容・認識しなければ、こちらの咆哮は虚しい慟哭。
所詮、刀の錆にすらならない。
正論や真理は厳格で口当たり辛辣なものだ。その対を感じたとき、甘さと温さに吐き気を催す。
負け犬の遠吠えではない。銀狼の咆哮だ。後足で砂を掛けるようなことは決してすまい。
牙が抜け落ちた野生動物は未練がましく生を垂れ流さない。
散り際にこそ身震いするような美しさを。
我が魂の命ずるままに──。