拘束と束縛の違いって何だと思いますか?
僕の小悪魔ちゃんからの出題。今現在、何となく音信不通で疎遠になってしまっているが、過去の草稿(2008.06.22)を元に改めて紐解いてみる。
拘束と束縛。どちらも同じような意味として捉えられている。
共通項を文字面から洗ってみる。
「束」──「束ねる」と云う文字。
「結束」や「収束」など、つまりは「まとめる」と云うことだ。それも大まかに括るのではなく、一点集中。「一点に絞り込む」と云う、そんなイメージ。
踏まえて「拘束」から。
「拘束」の「拘」は「
「拘束」とは、「拘りを束ねる」と云うこと。
先のイメージの話とは些か矛盾するが、「拘り」と云うものは一点集中しているとは考え難い。云うならば、分散しているものだと云えるだろう。
「拘り」と云うのは自らの色──意識世界での概念だ。一点集中されていないものを以て「拘り」とするのも何となく違和感があるが、複数あって当然だろうとも感じる。
一点集中の観点から見れば、興味の矛先などは拡散しており、人はそれほど純粋にストイックには拘れていないと云えるだろう。
と云うことは見えない複数の鎖に繋がれている、と云うことだ。しかも、それを行っているのは自分自身。
「拘り」とは、自分自身の世界観にどっぷりと浸っている、と云うことである。
──その「拘り」に「拘束」されていると云うことは、自らが自らに「意識的」に囚われている、と云えるかも知れない。
「拘束」と云うものが「能動的」である、と云うことが透ける。
よって、「拘束される」と云う表現は「本来」ではない、としてみるのだ。何故なら、「される」と云う受動表現は適切ではないからだ。
要するに「そうだと思っている自身に囚われている」と云うこと。
「妄執」などと云う言葉も浮かぶが、「自縄自縛」と云う言葉も浮かぶ。そして、こちらのほうが、より「拘束」の能動的要素を満たしているようにも感じる。
「自縄自縛」とは云わずもがな、自らの縄で自らを縛る、と云うことだ。立派な「能動」である。
対する「束縛」。
先の「拘束」を踏まえると、「受動的」である、と云える。第一段階での簡易的定義をしてみると、
「束縛」とは、「束ねて縛る」と云うこと。
ただし、これだと能動表現なので、「拘束」の定義と何ら代わり映えしない。違いを表現するのに適宜ではないので受動的に捉え直してみる。
「束縛」とは、「束ねられて縛られる」と云うこと。
要するに、自身と異なる色に依って束ねられ、それに縛られる、と云うことだ。
こうして「拘束」と「束縛」の関係が、或る程度、大まかに浮き彫りにされた訳だが、これだけでも何となく「違い」については感じられることだろう。
要するに、両者の関係は「対極にある」と云うことだ。所謂「能動・受動の対極関係」──「対」を成している訳だ。
──と、ここまでは「一元論」。自身だけで完結する概念・世界構成であると云える。
拘束に束縛され、束縛を以て自らを拘束している、と云う状況。そして、その状況には「他」に依る「制御」等は含まれていない。制御・統括を行っているのは紛れもなく自身である、と。
すべてのベクトルが「自」に向けられている場合にだけ成立する。
これを「他」に向けると?
要するに「二元論」へと展開すると、より複雑な様相を呈する。そちらのほうが面白そうなので続けてみる。
拘束と束縛の関係。
上述の定義(仮定)に準え、「拘束」を「能動」、「束縛」を「受動」と捉えるならば、単純に「SM論」で説明できそうだ。
「拘束」を「S」、「束縛」を「M」として括ってみるのだ。拘束を強いるSが居て、それに束縛されるMが居る、と云うこと。
──この仮定で話を続けてみる。
「簡易SM論」だ。
まず、「SM論」を論ずる前に、第二段階での「拘束」を再定義してみる。
「拘束」とは「強烈な自我」である。
先の一元論で云えば、「拘束」とは「拘りを束ねる」ことについて、自分自身に対して恐ろしく「能動的」である訳だから「自我」と括っても何ら違和感は覚えない筈だ。強烈な自我に間違いない。
ただ、二元論(SM論)に置き換えた場合、それを「他」に強要せねば「SM崘」として成り立たない。──なので、その括りで続行する。
Sの定義・概念を「善悪の分岐」を交えて捉えるならば、
こちらの自我は「善」である。従って、こちらの善にひれ伏せ。
──と、そう捉えることができるだろう。
そう信じて疑わない自我──疑いようのない「善」に依って自分自身を「拘束」し、それを自身が厭わないのは当然として、それを躊躇なく「他」にも放出する──これが「リアルS」である。
対する、「M」に置き換えられた「束縛」。
第二段階の再定義はさておき、「善悪の分岐」から考察してみる。
「束縛」をMとして括ると、Mにおいては「自我」による「善悪の分岐」は余り意味を成さない。
何故なら、Mは善悪の判断基準をすべてSに預け、委ねているのだ。「能動的自我」は顔を出さない。と云うより出す必要がないのだ。
あなたの善に従います。それが私の自我(=善)です。
──と、「自我のない自我」「主張しない自我」──これが「リアルM」である。
「SM論」としてイメージを高めるためにアイテム的に「鞭」と「鎖」を出してみる。
どちらが何を携えているのかは何となく想像に難くないだろう。
Sには鞭がMには鎖が──そんなイメージが即座に浮かぶ。
──と、ここまでは「通例のSM論」。誰もが思い浮かべ易い「SMの世界観」だと感じる。
この「簡易SM論」のアンチテーゼを掲げてみる。
通俗的概念(通念)で括ると、
Sはサディストの頭文字の略。
Mはマゾヒストの頭文字の略。
として捉えられている。
ここで少しお断りを…
サディズム、マゾヒズムと云う「主義・思想」については除外する。平たい二元論として、飽くまでも「対人」と云う括りで話を続行する。
力関係のベクトルは、
S→M
比較論を展開すれば、
S>M
と云う図式が成り立つ。
これのアンチテーゼを挙げてみる。
S=Slave(スレイブ・奴隷)
M=Master(マスター・主人)
こう置き換えるだけで、通念上のSM関係はガラリと豹変し、立場が見事に逆転して入れ替わる。
この思考回路を「拘束」と「束縛」にも代入してみる。
拘束=能動 → 拘束=受動
束縛=受動 → 束縛=能動
この置換。脳内で相関図が描けるだろうか?
平たく、SMに置き換えてみる。
まず、通念上のSMから整理する。
S=能動
M=受動
よって、SがMを
S→M、S>M の図式である。
これを逆転する。
S=受動
M=能動
S←M、S<M の図式。
お分かり頂けるだろうか?
強そうなS(サディスト)は実はM(マゾヒスト)で、弱そうなM(マゾヒスト)は実はS(サディスト)である、と。
マゾヒストであるスレイブのSは、サディストであるマスターのMが居なければ、その快楽・満足の矛先を失う。
逆もまた真なりで、
サディストであるマスターのMは、マゾヒストであるスレイブのSが居なければ、その快楽・満足の矛先を失う。
S↔M
(S>M)=(S<M)
この図式。これが「正解」だ。
と云うより「両極の真理」と呼べるかも知れない。矛盾していないことのほうが矛盾している。
SMの概念・世界観とは「相互補完関係」なのだ。どちらか一方が崩れれば、その関係は崩壊する。何とも、脆く儚い関係なのだ。
「拘束」と「束縛」も似た関係だと云えよう。お互いがお互いを縛り合うことで成立する。それは一元論でも二元論でも同じこと。
道義的に分離しているようで、実は「ひとつ」なのだ、と。
云うなれば、
拘束している自身に束縛され、それを機軸に自身で在ろうと「自我」を確立する。「拘束」と云う「ルール」がないと、自身を「束縛」できない。
──と云うこと。
「拘束」と「束縛」を並べ、縦読みすると面白い。
拘束
束縛
横読みでも縦読みでも──まさしく雁字搦めだ。
共通している文字を使って…
拘束縛
…なんて造語が生まれたりもする。
そして、こちらのほうがより密着率が高まり、何だかゾクゾクしてくるのは僕が変態だからだ。
見逃してね☆(´∀`*)
「拘束」と「束縛」の違い。
結論。
それは「漢字の並べ方」だけだ。
人は捉えられないものに囚われてやまない。
我が魂の命ずるままに──。
*2008.06.22・草稿 臨海隔離施設にて
コメント (3)
「身柄を─する」
「内規に─される」
「時間に─される」
「紅塵(こうじん)深き処に─せられたる身の/日光山の奥(花袋)」
ほら。辞書的には殆ど変わらないw まぁま、言葉遊びやよ(´∀`*)y-〜♪
定義に戸惑う前に、僕は君に戸惑って手間取ってしまうよ。。(*´艸`)ウフフ♪
戸惑って手間取って手詰まって。。☆
や、ゆいたいだけやんなぁ(´∀`*)
「拘束と束縛」から「能動・受動」を引っ張り出し、
果ては「SM論」まで展開する始末…
思考のランデヴー、独りSMの意義が少しでも見えれば幸いである。
人間とは、哀しいまでに自己中心的である。
こうして「実は何もない」と云う「真理」から逃避し、
空虚な暇潰しにささやかな愉悦を見出す。
モノローグなくして真の快楽は有り得ない。
脳内エピキュリズムにアップビートを♪
そんな感じで♪
とまぁ、つい先日、小悪魔ちゃんから不意にメールがw
相変わらずの紋切り調なのだが、そこに無礼さはない。
やはり、あなたは知的な香りがする(´∀`*)
この弄ばれる感がたまらんのよねぃ〜(´∀`*)
やぱ、僕、変態やわ。。アワワ。。
お婿になんて…到底、無理!(*´艸`)ウフフ♪
やぁ、そーいや再び出題された気がするのだが?
頭の良い娘は癒される。ありがとう。
そんな感じで♪