新宿中井に居る兄弟との共通項に「距離」と云うものがある。
そんなことをぼんやりと考えていたら、奇しくも、同じワードを綴っていた某ブログを見掛けたので少し掘り下げたい。
「距離を置く」と云うと、割とマイナスの印象を受けることが多い。
「あなたと距離を置きたい」などと告げられると、大抵、別れの予感を感じたりするものだ。
僕と兄弟の共通項と括ったが、僕はこの「距離」と云うものの重要性を常に考えているような気がする。
兄弟とは一緒に酒を酌み交わしながらそんな話をするのだが、彼もまた「距離」を大事にする。
「不即不離」と云う言葉がある。意味はそのまま「即かず離れず」だ。附随して「親しき仲にも礼儀あり」などが浮かぶ。
「推して知るべし」と云う言葉も浮かぶ。要するに「察してあげなさい」「慮ってあげなさい」と、「配慮」について説いているのだ。
これらの言葉が差しているのは、この「距離」に他ならない。
「公平」と云うことを考えると、この「距離」が浮かんでくる。
「あの娘ばっかりズルいー」
「アイツだけ肩入れしてばかりで…」
などと、単に「ひがみ根性」も含まれてくるだろうが、所謂「依怙贔屓」が入ると、途端に「公平」の均衡が崩れる。
「公平」と混同されがちなのが「平等」だろう。
だが、これらは似て非なるまったくの別物である。
「平等」と云う概念は恐らく有り得ない。と云うより成し得ない概念のひとつだと云える。簡単にバラせば「平たく等しい」と云う概念である。
「競争原理」から外れるし、特に「優劣」を云々する訳ではないが、何事にも確実に「格差」が存在する。
「格差」などと云う大袈裟な文言を綴ったが、要は「違い」と云うことを云いたいだけだ。
例えば、背の低い者は背の高い者を羨み、例えば、お顔の芳しくない者は整った者を羨み…などと、羨望の眼差しで「憧憬」の感情ならまだしも、ねたみ・そねみなど、高じて「嫉妬」などにスライドする場合もある。更に高じると、うらみ・つらみなど「怨恨」に発展する恐れもある。
実際に、こう云った感情群が思い当たる以上、「平等」とは、成し得ない概念のひとつなのだ。
故に、「渇望」する。
あるものはあるのだから、それで「満足」するはずだ。それでも「不満」を感じると云うことは、そのまま「満たされていない」。ただ、それだけだ。
人は、ないものを追い、囚われてやまない。ものすごく哀れで、幻想を追うことが得意な、不完全なオブジェクトなのだ。
「距離」と「公平」を並べたとき、「等距離」と云う言葉が浮かぶ。
「誰とでも等距離で接することができれば或いは…」
このような「仮定」がシミュレートされる訳だ。
だが、この仮定に挙がった「等距離」と云う「条件」そのものが成立しない。何故なら、人は、誰しもが「自己中心的」なのだ。
自分のために何かをしてくれた人、尽くしてくれた人…等々、それらを「優遇」するのは、意識的にではなく、潜在意識で判別する。
要は「理屈抜き」と云うことだ。
逆もまた然り、自分が迷惑を掛けた人、世話になって頭の上がらない人…等々、要するに「申し訳ない」を感じた場合、「気まずい」や「避ける」などが浮上する。
これらがある以上、「等距離」は成し得ない。
「等距離でも公平には近付けない? ではどうすれば?」
ここに来てキーボードが止まる。
「公平」とは、「おおやけに平ら」。
つまり、「広くフラットである」と云うことだ。
大局を俯瞰できぬ者同士では、そもそも「公平」でいられない。
そもそも「無理解」や「不条理・理不尽」が罷り通る構造。
ここに来て「距離」の重要性を改めて認識する。
願わくば、せせらぎのように溶け入って、あなたを浸蝕したい。
即かず離れず──、
それでいて…
捉えられて、囚われて──。
逃げたいのだけれど、逃れられない。
頭では分かっているのだけれども、躰が、心が、魂が──。
お願い。もう赦して。否、赦さないで……
Don't think, feel…
曖昧な輪郭が意識世界を牛耳り、恍惚の色を染め上げる。
我が魂の命ずるままに──。
コメント (2)
こちらには初めまして。
私は難しい言葉は理解出来ないんだけど、
なんだかこの距離考には、頷く部分が結構ありましたので、コメント残していきます。
>ふうかちゃん
ん☆ コメントありがとー