ゼロ距離考

親しき仲にも礼儀あり、と云われ訓示として立っている。
額面通りに解釈すれば、あるかないかのブーリアン分岐の一方を示しただけの言葉だ。

それに準えれば、単に「ある」と云っているだけで、それを用いてどうすべきか、という具体的なことまでには言及されていない。

ただし、言外には「あるのだから尽くしなさい」ということが示唆されている。解釈の違いを生む要因は「礼儀」。この辺りに潜んでいそうだ。

「ゼロ距離考」──である。

僕は身内を含め、近親者にはきつく当たる。それは「傍に居るんやから云わんでも分かるやろ?」という傲慢がそうさせる訳だが、いかに近親者といえども理解の分岐は生ずる。

また、理解したからといって、その通りに振る舞うかどうかも別問題として挙がる。ぞんざいに扱われれば腹も立てるだろう。

「誰とでも等距離で付き合う」

こんなことを云われたことがあったが、当時、僕は「ああ、平等に扱っていると云いたいんだな」と解釈していた。

人間関係というのは、突き詰めると、この「距離」の捉え方だと考えられる。その距離に対する感性がその人の対外的人格を形成する。

誰とでも等距離で付き合うことができた僕は平等な人間として映っていたのだろう。ただし、この部分は僅かに誤解があるので後述したい。

そう心掛けているのは今でも変わらない部分だが、こと近親者に対してはどうだろうか。等距離というフレーズは当て嵌まらない。

ゼロ距離。

等距離どころの騒ぎではない。距離など置かない。気の置けない仲、という言葉があるが、僕はゼロ距離をそう捉えているようだ。

距離を置かない。良く云えばフランク、悪く云えば無作法。相手の捉え方次第で良くも悪くもいずれかに分岐する。

こめかみに突きつけられた拳銃。それがゼロ距離な訳だが、引き金を引かれれば即絶命する。恐らく躱せないだろう。

このゼロ距離を互いに楽しめるのは、そう簡単なことではない。互いのこめかみに拳銃を突きつけながら真っ正面から対峙する。こんなシチュエーションで互いにニヤリとできるのはフィクションの世界だけだろう。

ゼロ距離には、互いの手札をターン毎に切り合う、というようなルールはない。互いの都合を確認し合ういとますらない。本能的・直感的・運命的──それら抽象的なオカルトの類いが支配する。

対外的には平等に接し、近親者にはそれをしない。僕のスタンスを端的に表せば、そういうことになるだろう。

そこで「平等」という言葉に引っ掛かる。

先述の誤解部分だが、「平等」と混同されがちな言葉に「公平」がある。共に「平ら」という字が入っているが意義は根底から違う。

平等とは等しく平らであり、公平とは公に平らなのだ。「平ら」とは「同等」ということだろう。所謂「フラット」、どちらも出ず引っ込まず、平らに均された状態。そこに凹凸はなく上下関係はない、という状態だ。

平等の意味するところの平らな状態というのは恐らく世の中に存在しない。形而上、素晴らしい概念だが、便宜上、通念的に存在しているだけであって、物事には必ず上下関係が生じているものだ。ヒエラルキーが軽視される昨今においてもそれは確実に存在する。

ここでは優劣の差異についての言及は避けたい。僕の主観と他の主観が大いに絡み合う部分であることが容易に想像できるからだ。格差はある。だが、そこに優劣の格差はない、とだけ云っておく。

公平とは、ちょうど、日本の税制の中の所得税などがそれを理解するに一番簡単な例だと感じる。

稼ぎの多い者は多く納め、稼ぎの少ない者は少なく納める。累進課税法。その金額の多寡は平等ではなく公平だ。

税金を納める、ということについて平等であって、金額については公平である、ということだ。

この思考を他の事象に置き換えると、金額の違いが「内容」に当たる。具体的に行う(べき)方法・手段ということだ。

この段にきてようやく、僕のスタンスがより明確に紐解ける。

僕は平等ではなく公平に接しているだけだ。近親者にはゼロ距離で、他の者には相応の距離で。

当時の誤解はこれで解けるだろう。僕は等距離ではなく公距離で、つまり、パブリック・スケールで接しているのだ。

ゼロ距離の秘密は解明したが、だからといって近親者に対する風当たりが緩むはずもなく、本当に、もう不運だと思って諦めて貰うより他に手立てがない。

ゼロ距離には礼儀を尽くす隙間がない。阿吽の呼吸などのオカルトの類いが支配するのだ。

逆説的に、礼儀を尽くされているということは、限りなく親密だとしても距離を置かれている、ということだ。

生まれたということが既に結果であって、泣こうが喚こうが何も変わらない。

合掌!

そんな感じで♪

___ spelt by vincent.