例えば、喫茶店の壁にかけられた額が水平垂直を保っておらず、みっともなくヒン曲がっていたとしても誰も気に留めない。
以前ほど神経質にはならないとは云え…事あるごとに僕は席を立って調整していた…やはり、首筋にムズ痒い不快感が走る。
杓子定規といかないまでも、歪んでいる状態を目の当たりにして、よくもまぁ平然としていられるものだ。
どうやら「鈍感」が育まれる温床は、この辺りにありそうだ。
感覚が麻痺した状態を「善し」とする傾向。感受性が拾ったものを「要・不要」で分岐せよ、と云う教育──。
社会通念的には、それを「成長」と呼ぶらしいが、僕にはそうは感じられない。
感受性が傍受したものは「要・不要」で括るべきではない。それを云うならば、我々人間など不要の頂点なのだ。余剰の余剰の上に成り立つ人間──的外れなご託宣はうんざりだ。
無神経が繰り出す刃の餌食は、常に繊細で鋭敏な感受性の持ち主らだ。
その感覚のない者にそれを伝える煩わしさ。説明できないものに説明を迫る無知・愚鈍──。
それらに辟易とする。
ほら、そこが歪んでるんだよ…
気付かねえかなぁ……
*2008/06/28 臨海隔離施設にて