「4つの窓」について、
以前、綴ったものを転載してみる。
2007年01月22日17:30 自己分析
表面上は平静を取り繕っているものの、
現状、僕の内面は満たされていない。
自己分析するに、「会話に飢えている」。
ここに到達する。
別段、騒ぎ立てる、と云うことではなく、
普通に日常のあれやこれや、
ふと思い付いたことなどを喋り合う
「雰囲気」を求めているのだろう。
自身を客観視したときに、そんなが浮き彫りにされる。
僕は、周知の通り、寂しがり屋だ。
それは兄弟のポジション上「長男」と云う立場で
生まれ育ったことにも起因しているだろう。
「お兄ちゃんなんだから…」
この言葉は、僕にとって呪いのひとつとなっている。
大概が「我慢しなさい」に紐付くのだが、、
それが精神的な圧迫となったのだろう。
「何故、先に生まれただけで…?
分かったよ。我慢すりゃえーねんなぁ?」
こんな自問自答を繰り返すうちに、
いつしか意識せずとも我慢することが「当たり前」に
なってしまったのだろう。
僕は、この辺りを「刷り込み」と呼んでいる。
所謂「洗脳」と…
今も昔も変わらず、僕は相談を持ち掛けられることが多い。
僕は、人間好きなので、そのこと自体はとても好きだし、
「頼られている」と感じられることが何より嬉しい。
これは、「俺が居ないと何も出来ひんのぅ〜」とかではなく、
「何でも相談して。聞いてあげるよ?」的なところから発生する感情だ。
裏を返すと、これは僕も僕の話を聞いて欲しいのだろう。
ただ、僕には相談する矛先が少ない。
と云うより、皆無だ…
ここが、僕の寂しがり屋の原因だ。
僕は自分自身のことは誰よりもよく知っている。
多分、こう云ったことは誰しもが感じることだろう。
自分が知っている「自分」とは、
或る程度、「周知」となって、あまねく他人に浸透する。
4つの窓、と云う心理学的なエピソードがある。
すべての窓が「自分」を表している、と云うのだ。
1)自分が知っていて他人も知っている窓
2)自分だけが知っていて他人が知らない窓
3)自分が知らなくて他人が知っている窓
4)自分も他人も知らない窓
この4つ。
なかなかに面白い考えだ。
1)の窓。
これは所謂「社交性」などと呼ばれる部分だろう。
この窓を広く開けている人は、平たく「人気者」。
面白かったり、明るかったりするだろう。
2)の窓。
所謂「トップシークレット」の部分。
「翳り」などとも呼ばれるだろう。
この窓の存在を感じるからこそ、
追い掛けたり、知りたくなったり、、
何せ「謎」だと感じる部分を解き明かしたいと思うのは
自然の流れだと感じる。
3)の窓。
これが当人にとっては一番厄介だろう。
1)の窓、つまり「社交性」なりが高くて、
他人から助言なりをもらえる人は、
この窓は小さくなってゆくだろう。
ただ、それが出来ないと、いつまで経っても、
所謂「身の程知らず」な状態が続く。
「オマエモナー」などとは、この窓を揶揄する言葉だろう。
一番厄介で謎なのが4)の窓…
その窓の存在を当人どころか他人も知らないのだ…
いかにして、知ることが出来るのだろうか…
あるかないかすらも、実は怪しい…
僕は、この窓を「ポテンシャル」などと呼んでいる。
自分も他人も、誰も知らない潜在能力だ、と。
僕の寂しがり屋は1)の窓だ。
ただ、それを殊更にアピールするものではない。
「お兄ちゃんなんだから…」と云う呪文で、
僕は、我慢を強いられることに鈍感なのだ。
そして、こうして文章として綴り、ダダ洩れることで、
自身の精神の平定に努める。
これは「人のフリ見て我がフリ直せ」を、
自虐的な例を挙げ晒すことで、他人に促しているのだろう。
3)の窓の存在を知りなさい、と。
そして、これは
自身と他人に同時に投げ掛けていることに他ならない。
故に「大いなる独白」と呼ぶ。
僕が会話に飢えている原因は、2)の窓にある。
故に、辛くて苦しいのは必然なのだ。
僕は「お兄ちゃんだから」と云う呪いに阻まれ、
それを顕著に晒すことを苦手としている。
故に「慮る」「察する」と云う能力が長けてくるのだろう。
平たく「気遣う」と云う部分。
僕を「哀しい人」と云った人がいたが、
それは、僕がよく分かっていることであり、
何故そうなのかもよく知っている。
道化は世界の悲哀を食み、
世界へ愉悦で還元する。
愉悦に還れなかった悲哀。
それらが消化不良で蓄積され、
やがて、飽和して哀愁が漂う。
湯気のように、
当て所なく、
ゆらゆらと──。
一方的に想いを寄せる「孤独」を愛でてやろう。
そして、愛と表現に生きよう。
我が魂の命ずるままに──。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョハリの窓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


























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