会話は要らない

15時過ぎ、虎ノ門病院へ行った。

今日は10年連れ添った元彼女が手術する日だ。元彼女の姉は腎臓を患っており、人工透析までしていた。

腎臓移植という大手術。

姉は生まれつき腎臓が悪く、幼少の頃、6人部屋の病室で過ごしていた。6人部屋の中で5人は生存していない。精神力でたくましく生を勝ち得た強い女性だ。元彼女と過ごしていたときには、かなり世話になった。

受付で部屋番号を訊き、元彼女のベッドへ向かった。酸素マスクをつけ、いびきをかいて寝ていた。痛み止めの点滴を受けていたが、顔は安らいで見えた。

ベースボールキャップとサングラスを外し、ベッドの脇にある丸椅子に腰掛けた。

「おう」

麻酔が切れかかっているのだろう。うっすらと目を開け、こくりと頷いただけだった。

頭を撫でてやり、がんばったな、と声を掛けた。意識が朦朧としているのか、表情からは心情が窺えない。

しばらくして、丸椅子から腰を上げると、ゆらゆらと右手を差し出してきた。

俺はその手を取り、握りしめてやった。安心したように、また眠りに就いた。

姉の旦那が来て挨拶をし、姉の容態を訊いた。もう少し掛かる、と心配そうな表情で応えた。

仕事は? と訊かれたので、休みもらいました、と。その他、近況報告をし合いながら姉の帰りを待った。

看護婦さんと先生が入れ替わり立ち替わり。終わりましたらお呼びします、と。姉の旦那は部屋をグルグルと旋回していた。終わりました、の声を聞くや否や姉の旦那が病室から飛び出した。

しばらくの間、俺と元彼女のふたりきりになった。言葉はひと言も交わされなかった。

ただ、握りしめる手の強弱で会話していた。

姉の旦那が部屋に戻ってきた。

「(元彼女の名前)がんばったな。(姉の名前)も大丈夫だから」
ありがとう。じゃあ行くね、と病室をあとにした。

酸素を送り込むボコボコという音が鳴り響く病室の中、再び、ふたりきりになった。元彼女の寝顔を眺めながら、いろいろなことが頭に浮かんだ。

しばらく、シェイクハンド会話をした後、ベースボールキャップとサングラスを掛け、虎ノ門病院を後にした。



スターバックスのテラス席。
煙草を吸いながらケータイ電話で話をしているサラリーマンの──甲高い笑い声が妙に鼻についた。

___ spelt by vincent.