自然体と無心と贅沢と

物事を深く考えることから離れて久しいような気がする。環境がそうさせているのか、果ては能動的な意思によるものか… それすら判断できない。

故に時折こうして能書きを綴る。

「自然体」という言葉を耳にした。
一般的な中年サラリーマンの弁だ。
「無心」という言葉をキーワードに据えた。

「私は仕事で営業をやってるんですが、取引先で『自然体』でいられないんですよ。自然体でいるほうがスムーズに進むことは分かっているんですが…」

変にギクシャクしてしまったり、気まずい雰囲気になってしまったりするのだという。

次に質問。

「こういう商売をしているときって自然体ですか?」

しばし躊躇。その間、コンマ何秒の世界。

「抱えている背景によってアプローチが変わるのは当然だと思うんですよ。自然体は理想なんでしょうね」
「や、極々自然体に見えますよ〜」
「アハハハ、何にも考えてない証拠ですね」

やれノルマだの営業成績だの…
自分の与り知らない部分で動いている背景があると、自分の意思のみによっては行動できない。自分の一存ではすべてを判断できない訳ですよね。

期待やプレッシャーのギュウギュウ詰めの缶詰の中で、肩肘を張ってしまったり、無理な力の入れ方をしてしまう。

そもそも自然体から遠ざかった部分で行動してると思うんですよ。

例えば「無心」──「無心になろう」と念じた時点で既に無ではない訳で… 兎にも角にもパラドックス。世の中、矛盾だらけですわ。

そう云って笑った。中年サラリーマンは大きく頷きながら、メガネの奥の虚ろな目を閉じた。ま、飲みましょう、と彼のグラスに自分のグラスをカチンと当てた。


サラリーマンという生き方。自分は肯定的でも否定的でもない。収入の方法手段に差異はあれど、大別すれば皆一様にサラリーマンだ。

月極単位で収支をコントロールし次月へと進むだけ。前月の繰越金が残れば黒字。逆に、足らなければ赤字。

資本主義の世の中において、行政の定めるところの貨幣制度に則って、死ぬまでそれを繰り返しているだけに過ぎない。

生活を営むために金銭で縛られている時点で既に自然体ではない。
世の中の大半の人が自然体でいられないのは当然のことだと感じる。


それぞれの幸福の定義によってその判断は難しいが、金銭の多寡で幸福の度合いが変わってくるといっても過言ではない。

金銭で得られる幸福は、価格が設定されている以上、確実に金銭で得られる。設定金額が低額か高額かで、買える人と買えない人とに分かれるだけだ。

金銭で得られる幸福には、正直、余り興味がない。羨望や憧憬の念も抱かない。他人の価値観に流されるつもりはないからだ。

「『グルメ』だとかっては、どーなんスかね〜?」

と、ノーゲストで暇な時間にオーナーに訊いたことがあった。

「どうせクソやションベンになってまうもんに大枚はたくってのはねぃ〜 ま、今のオイラにゃ無理なんスが…」

彼は腕組みをしながらフフンと鼻で笑って、

「一番の贅沢は飲食にゼニ惜しまねえことだよ」

と。

「家にしてもクルマにしても、何か形に残るものにゼニつぎ込むのは本当の贅沢じゃねえな」

彼は続ける。

「どうせ死んじまう訳だから残したってしょうがねえじゃねえか。ウマイもん喰ってウマイ酒飲んでクソして寝る! これが一番の贅沢!」


今の自分に贅沢は夢のまた夢のようだ。
ま、飲んじゃうべき♪ 無心に。

___ spelt by vincent.