Realism と Fantasism
相反する矛盾の同居。
根底に眠る矛盾点に気付かぬ愚鈍さ。
だからこそ人は死ぬまで生きてゆける。
社会的な死、医学的な死、精神的な死。
死にも様々な種類がある。そして、同じ語彙を当てているにも関わらず、その意義はそれぞれに異なる。
社会的な死の定義は、主に、職場を追われた者や次の職場を閉ざされた者を差すことが多い。「社会的に抹殺される」など、やはり、社会的に集約される個だけでは制御不可能な大いなる他の力が加わって成り立つ。
被害者・加害者の括りで云うなれば、両者共に相応の責任と、そうなる結果を導いた非があるようにも感じる。
医学的な死の定義は、方々で物議が醸されている。脳細胞の機能が停止したときを差すのか。心臓の鼓動が停止したときを差すのか。学問であるにも関わらず非常に曖昧だ。
否、学問であるが故に曖昧なのかも知れない。そうでなければ、学問としての究明・解明・追求。それらのベクトルが閉ざされることになる。
そして、派生として宗教的な要素などにも絡んでくる。
医学と宗教の壮大なるコラボレーション。
まぁま、綴ると長くなりそうなので…
精神的な死の定義は、最も定義が曖昧にも関わらず、幾度となく味わったような錯覚を起こす、非常に厄介な代物と云えるだろう。
それは何故か?
己ひとりで成り立つ定義だからだ。己の知り得る範疇で或る程度カタがつく。
他の死には、己ひとりでは成り立たず、また、どうにも抗えない要素が含まれていたりする。穿った云い方をすれば、他の協力を必要とする。
或いは、この辺りの定義の差異に個々の価値観が眠っているのかも知れない。
2004年2月29日、頭蓋骨骨折で緊急手術、入院した。原因は職場での暴飲。
このとき、医学的な死を彷徨い、辛くも生還し、同時に、再び社会的な死を感じた。
何故、「再び」なのか?
この医学的な死を彷徨った原因は、そもそも、自分の望む職場での活動を追われ、方々に当たるも受け取り拒否され、所謂、社会的な死を感じ、止むに止まれず苦渋の選択で得た職場での結果だからだ、と分析する。
社会的な死を感じ、医学的な死を彷徨い、再び、社会的な死を感じる──。
何とも、救い難いループだが。。苦笑
それは、自身の未熟さが招いた「愚者必然のループ」だと感じる。
社会的な死を感じながらも生きながらえていたとき、ひとつの光明を見出したような気がした。優しい光のシャワーに包まれているような感覚。
とても心地好かった。
その光に依存する訳でもなく、縋る訳でもなく、何とも表現し難い超現実な感覚。或いは非現実な感覚。
覚束ない前世の記憶を頼りに、元々の自分の持ち物を取り戻したような。
不思議な感覚。
その心地好さに慢心してしまったのだ──。
過去に綴った文章をぶらぶらと眺める。苦笑しながらも、キラ星のように輝く文章が眩しい。自画自賛ではなく、自分にしか解らない純粋な想いが鏤められている。
そして、溢れている──。
俺の愛しい人。俺だけの愛しい人──。
Realism と Fantasism
相反する矛盾の同居。
根底に眠る矛盾点に気付かぬ愚鈍さ。
だからこそ人は死ぬまで生きてゆける。
永遠に色褪せることのない
変わらぬ愛を胸に。
我が魂の命ずるままに──。
コメント
2005年11月23日17:23 vincent.
届かなくてもいい。伝わらなくてもいい。
俺は俺の想いを綴るだけ。。
あなたの想いはあなたのもの。。
お気の召すままに──。
愛しい人よ。。永遠なれ。。
2005年11月23日18:48 vincent.
俺は精神的に死なない。
「死なない」と約束したからだ。否、約束ではない。そう自身に楔を打ったのだ。
精神的に死んだような気になったのは、自身の錯覚。空虚な脱力感も自業自得の理。
「死なない」と云った人間が死ぬことは許されない。否、死ぬことさえ許されない。
自身が、愛しいと想い、恋焦がれている存在に、トドメをささせてはならない。
「死」を命ずることをさせてはならないのだ。
そんな風に感じる。
2005年11月23日22:32 vincent.
「社会的な死」の淵から救い上げ、「精神的な死」をも乗り越えられる喜びを独自の世界観を以って与え給うた存在。
まさしく孤高──。生まれながらにして君臨している絶対的な価値観──。
羨望と憧憬の念を抱いたことのない自分に、この上ない喜びを教えてくれた。
少なくとも、俺にはそう感じて止まないのだから、全くどうにも…
或いは、人が持つファンタジズムの代表、「宗教心」。それは、この辺りに潜んでいるのかも知れない。
脳内会議フル稼働と云ったところか。。苦笑
やめられない。とまらない。。
独り言が大きくてごめんなさい。。