「言葉のサラダ」冒頭の論旨を踏まえると、一般的に「頭がいい」と云われる人らは、論理的固形物の
つまりは「高尚な併せ打ち」である。
成る程。論理破綻していなければ、大抵の人が渋々ながらでも納得する。
所謂「正論」のことを差しているのだが、正論は何処まで行っても正論だ。そこに「正論」の強さ、残酷さ、恣意的、独善的などが見え隠れするが、さておき…
僕は非論理的断片を多く内包している「潜在的クレバーエレメント」に惹かれる傾向にある。要するに、しどろもどろI want youばっちこいや、と云うことだ。
「分かるよ。対外的にうまく表現できないから浸透しないだけであって、僕にはものすごくよく伝わる。君の云うことは正解だね」などと。
知ったかシンクロ率が高ければ大抵が心を開く。
人は(本質的には)理解されないことを知りつつも、何処かで理解されたいと欲するものだ。
ここで「無理解者に囲まれる」と云う悲劇が浮かぶが、それは何も現代だけのシチュエーションではない。
事実、多くの「伝記」に登場する偉人らのエピソードで知ることができる。
当時の天才たちは、殆どが「奇人・変人」扱いを受けている。当然と云えば当然なのだが「フツー」の人はほぼ居ない。
踏まえて強烈な逆説を唱えるならば、
奇人・変人でなければ人を動かすことはできない。
──と云えるかも知れない。
「個性」と云う概念に「常識」と云う枠組みは意味を成さない。
「みんなと一緒」を望む者ほど、不平等な状況を作り上げる。
「矛盾を抱く」と云う「高尚な諦観」が唯一の救いだと感じる。
事実、原理原則、矛盾してないことなど、ひとつもない。
理解できることなど、ほんのひと握りの断片に過ぎない。
例えば、勉強ができる、スポーツが得意だ、等々。
それらは単純に「個性」──パーソナリティのいち断片だ。
どちらか一方に寄せ「均す」必要はまるでない。
他人の敷いた美徳観に準拠する必要もない。
恐ろしく欠損した部分を補うに余りある「個性」さえ育めれば、「自身」と云う輪郭は鮮明になり、同時に、他人にもそう映るだろう。
つまりは「スパーク」と云うことだ。
潜在的クレバーエレメントをスパークさせる。
僕は、それを「ポテンシャルの覚醒」と呼ぶ。
てんで散り散りに霧散した浮遊球体を一気に収穫する作業。
所謂「脳内切り取り作業」であるが、この「ポテンシャル覚醒の顕示化」と呼ばれる一連の思考活動には、相応の苦悩なり脳内電気エレキテルなりが附随する。当然、頭痛持ちでなくとも頭が痛くなる。リアル・ボンバ・ヘッドだ。
要するに、「こちらの当然」「こちらのオーイエー」を、(表面上)無理解者に向けて放出しようとしているのだから、相応の「覚悟」と「工夫」が必須となってくる訳だ。
覚悟が定まらぬ者が臆病風に吹かれ、中途で頓挫する。
工夫を凝らす労力を惜しむ者が、中途で頓挫する。
要するに「端折る」「手を抜く」「諦める」と云うことだ。
諦めたら諦めた時点で、その物語は終焉を迎える。
アンコールのお声も掛からず、遂ぞ日の目を見ることはない。
それは「挫折」や「妥協」とは呼ばない。
単純に「逃避」と呼ぶ。
自己顕示逃避──である。
大袈裟に云えば、強烈な「自己否定」とも云える。
逃げる者に捉えられるものは、多分、自身の望まぬもののほうがより多い。
余計な物ばかりを掴む羽目になる訳だ。
そして、不都合なことに、そう仕向けているのは、自身のスタンスとベクトルに他ならない。
つまりは、自業自得の理──である。
恐らくブレていないだろう。
かなりコアな領域の一部だ。
現代社会の「没個性」とは、時流の教育が「均一に均すことを善し」とした必然の結果だ、と感じる。
その「時流のテーゼ」を「ぶっとばせ」。
陳腐な教育論などでは何も生み出せない。
生きたインテリジェンスが強烈な個性を生む。
僕はそう感じる。
双眸に紅蓮と蒼白の焔を。
喉笛に静寂の咆哮を──。
我が魂の命ずるままに──。